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「了解!」
(中には、本当に狸を食べる人間もいるけど……。そこは伏せておいた方が良さそうね)
私は心の中でそっと付け加えた。
「ふん、お前に合わせる訳じゃないが、俺はきつね蕎麦にする」
「きつねもあるだか!?」
稲七はそう言うとお品書きを閉じた。どうやら、どんな料理なのか説明しなくても分かっているらしい。
狐の好物は油揚げだというが、あれは本当なのだろうか。
「ねえ、稲七もやっぱり油揚げが好きなの?」
「まあ……人間の食い物の中ではマシな方だな」
すました顔をしているが、これはかなり好きという意味だろう。だんだん彼の性格が分かってきた気がする。
「承知しました。じゃあ、ちょっと時間かかっちゃうかもしれないけど、お待ちくださいね!」
私は気合を入れてキッチンへ向かった。二人分なら、お店の厨房でなくても充分だ。ついでに私も夕食にしてしまおう。
(昨日のはいい感じだったんだけど……香りがもう一つだったのよね。かえしの寝かしが足りないのかしら?)
実は、祖母の仕込んでいた蕎麦つゆが無くなってしまったのが寂しくて、なんとか自分で再現出来ないか、このところ毎晩挑戦していた。
鰹と昆布の出汁も、祖母に教わった手順通りに煮出したものを合わせた。
(これでよし!)
手際良く三人分の蕎麦とお茶を用意して、私は店に戻る。
「お待ちどうさま!」
お盆を持ってテーブルへ向かうと、二人は何やら話し込んでいるようだった。
私に気が付くと、天助はそれまでの真剣な表情から一転、嬉しそうに立ち上がって蕎麦を出迎える。今は見えていない尻尾が、きっとぱたぱたと振られているに違いない。
「おお! 蕎麦だ、蕎麦だー!」
「まずはたぬき蕎麦ね。後、きつね蕎麦と私の分も持ってくるわ。一緒に夕飯にさせて貰うわね」
順に蕎麦とお茶を運んで、私も椅子に腰掛けた。
「やっぱり良い香りだべ〜。ん、つきみのは、なんて蕎麦なんだ?」
「卵が乗った月見蕎麦よ!」
「なんだー、みんな自分にぴったりな蕎麦だな!」
彼はくしゃくしゃの癖っ毛を掻いて、愉快そうに笑った。
「私の名前、おばあちゃんがつけてくれたの。綺麗な満月の夜に生まれたからなんだって。さ、伸びないうちにどうぞ!」
「ありがてぇだ」
天助は座り直すと、また丼を両手で持ち上げて食べようとする。
「箸くらい使え」
稲七は慣れた様子で七味を振り、箸を取って手を合わせた。
「ハシって、この棒切れか?」
稲七の真似を試みるも、天助の手つきは覚束ない。やっとのことで、天かすと蕎麦を口に運ぶと、彼の表情は見るからに明るく輝いた。
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