第一章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

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 涼太は朝から二階の自分の部屋で夏休みの宿題をそれはもう真面目にやっていた。夏休みに入ってから、宿題に手を付けずに遊んでいたことが母親にバレてしまい、今日は一日、宿題をする日と決められてしまったからだ。  昼ご飯を食べてしばらくして、母親が買い物に出かけ、家に一人になったことをいいことに休憩という名目でサボることにした。  このまま遊びに行きたい気持ちもあったが、バレてしまったときには怒られるだけでは済まない気がして、冷蔵庫にあった好物の炭酸飲料で我慢することにした。  一階の台所に行き、目当てのものを手に入れ、急いで自分の部屋に向かう。しかし、急ぎすぎていたせいか、階段に足を引っかけてしまい盛大にこけてしまった。  幸い階段から落ちるということはなかったし、強く打って痛い以外は怪我もなかった。ただ、こけた勢いで持っていた炭酸飲料を放り投げてしまった。凹みができてしまった缶を拾い、自分の部屋に戻り、窓枠の(ふち)に腰かける。吹き抜ける風は生ぬるいがクーラーのない部屋の中の熱気よりはましに思えた。そんな風を感じながら、涼太は炭酸飲料の缶のタブに指をかけた。  次の瞬間、プシュッと音を立てた後、炭酸が勢いよく噴き出してきた。 「うわぁぁああ!! ちょっとまじかよっ!!」  涼太は思わず声を上げながら、とっさに窓の外に炭酸飲料を持った手を出し、部屋の中に炭酸が飛び散ってしまうという惨事をなんとか避けることができた。  しかし、代わりに窓の下をタイミング悪く歩いていた日傘を差した見知らぬ女の子に炭酸水の雨を降らせるという二次災害を招いてしまった――。  涼太が説明し終えると、梨奈は呆れた表情を浮かべながら、 「それで、その女の子を家に上げて、どうしていいか分からずに私を呼んだのね」  ため息交じりに状況の確認を終え、涼太は申し訳なさそうに頷いた。 「分かったわ。私がこの傘をキレイにする方法を見つけてあげる。だから、私に任せなさいっ!」  梨奈は胸を張って、自分の胸をトンと軽く叩いてみせる。涼太は今までに何度も見てきたその頼りがいのある姿に表情を明るくする。 「ありがとう、梨奈ちゃん」 「で、涼太。どうして、わざわざ見ず知らずの女の子を助けてあげようと思ったの?」 「それは――」  涼太は思わず口をつぐんだ。物心つく前からずっと一緒にいる幼馴染の梨奈に間違っても、「それはこっちを見上げた、その女の子がかわいかったから――」なんて本当のことを言えるはずがないからだった。涼太が黙り込んだことに梨奈は「それは、なんなのよ?」と続きを催促する。その言葉に涼太は思わずバツが悪そうに笑って誤魔化そうとするが、梨奈は付き合いの長さからくる直感で何かを隠していると気付いてしまった。 「なによ? ちゃんと言いなさいよ」  梨奈の圧力から逃げるように、涼太は座ったままじりじりと廊下を滑るように後退していく。しかし、その後退を梨奈が黙って見過ごしてくれるわけもなく、靴を脱いで玄関に上がり、涼太が下がる速度と同じ速度で追いかけながらプレッシャーを強めていく。  そして、ついに陽子のいる居間の前まで押し込まれてしまい、座ったまま怯えるように後ずさる男の子とそれを不機嫌面で追いかける女の子という、なんとも奇妙な場面を(さら)すことになった。  その突然現れた光景に陽子が目を丸くして驚いていると、梨奈は陽子のそんな視線に気付き、涼太はもういいとばかりに陽子の方に向き直る。 「ねえ、あなたがあの傘の持ち主なの?」 「う、うん……」 「ふーん。あなた、このへんじゃあ見かけない子よね? どこの子?」 「えっと……昨日の夜にこっちに来たから……」  梨奈の矢継ぎ早な追及に、陽子は俯きながら小声で答えていく。 「昨日の夜に? じゃあ、旅行かなにか?」 「お父さんの仕事で引っ越してきたの……」 「そうなのね。ねえ、あなた何年生? 私は梨奈。そこでぼけっと座ってるのは涼太。私たちは四年生なんだ」  梨奈は涼太のこともついでに自己紹介をする。陽子は顔を上げて、二人の顔を交互に見つめる。涼太は視線に気付くと柔らかく微笑み、梨奈は目が合うとニコッと明るい笑顔を浮かべるので、気持ちが軽くなる。 「わ、私は陽子。同じ四年生……だよ」 「陽子ちゃんかあ。よろしくね」  梨奈は人懐っこい笑顔で微笑みかけるので、陽子もつられて笑顔になり頷いた。 「そうそう、それでヒガサのことだったよね? ちょっと待ってて」  梨奈は数分前の涼太と同じように居間を出ると、真っ直ぐに玄関近くの電話に向かい、同じ番号をプッシュする。 『はい、もしもし』  穏やかな女性の声が聞こえてきて、梨奈はそれが目的の人物の声だと確信すると、(まく)し立てるように話しだした。 「あっ、お母さん? 私」 『ああ、梨奈。どうしたの? 今、どこにいるの?』 「涼太の家だよ。でね、お母さんに聞きたいことがあってね、お母さんはヒガサをキレイにする方法って知ってる?」 『日傘? ええ、知ってるには知ってるけど……でも、汚れ方にもよるわね。綺麗にできるか見てあげるから、できるならその日傘を持ってきてくれるかしら?』 「はーい!」  梨奈は返事と同時に受話器を置いた。 「涼太! 陽子ちゃん! ヒガサ、キレイにできるって! だから、今からウチに行こう!」  梨奈は声を張って、二人に呼びかけた。その声に陽子は居間から顔を出しながら、 「ほ、本当に綺麗になる?」  と、尋ねると、梨奈は「きっと大丈夫だよ!」と胸を叩いて見せた。 「それじゃあ、陽子ちゃん。梨奈の家に行こうか?」 「うんっ!」  陽子は涼太に力強く頷いて見せる。涼太は立ち上がって、手を陽子の方に差し出した。その手を掴んで立ち上がった陽子と涼太は二人並んで玄関に向かった。  梨奈は先に日傘を手に玄関の先で二人が来るのを待っていた。そして、二人の仲よさそうな雰囲気に気付き不機嫌そうな視線を向けるが、そのことに気付かれる前にこれから向かう先にすっと視線を向けた。  梨奈の家は涼太の家からは目と鼻の先で、百メートルも離れていない場所にあり、古い町並みと比較的新しい家が混じり始める境界にあった。そのため涼太の家のような古民家ではなく、小さな庭付きの一般的な二階建ての家屋だった。  梨奈は自分の家の玄関の戸を開け、 「おかーさん! ただいまー。言われた通り持ってきたよ?」  と、家中に声を響かせる。 「おかえりー! 準備できてるから、お風呂場に日傘持って来てくれる?」 「分かったー! じゃあ、行こっか、陽子ちゃん」  梨奈は風呂場に真っ直ぐに向かい、涼太と陽子もそれに続いた。そして、梨奈は風呂場にいる母親に日傘を渡した。梨奈の母親は受け取った日傘を慎重に開く。 「どれどれ? この濡れてシミになってるやつかな?」 「うん、そうみたい」 「おばさん、こんにちわ。キレイになりそうですか?」  風呂場に顔を(のぞ)かせながら、心配そうに涼太が尋ねる。 「ああ、涼太くん。こんにちわ。もっとひどい汚れ方かなと思ってたけど、これなら大丈夫よ」  梨奈の母親はいつも通り穏やかな笑顔を向けて涼太に応対する。 「それよりもこのシミ、ちょっと甘い匂いするけど、何がかかったのかしら?」  梨奈の母親は手で仰いで匂いを嗅いで尋ねる。涼太はもう一度説明するのがなんだか恥ずかしく、目を逸らした。そんな涼太を横目に、 「なんか知らないけど、炭酸かけちゃったんだって」  梨奈が笑いながら代わりに答えた。 「そっかそっか。炭酸の雨にでも降られたのね。それは大変」  梨奈と梨奈の母親は顔を見合わせて笑い合う。そのなかで、梨奈の母親は風呂場の扉の陰に隠れるように中を覗いているもう一人の姿に気付いた。 「それで、そちらのかわいい女の子は新しいお友達?」 「うん、陽子ちゃんって言うの。そのヒガサの子なんだよ」  梨奈は嬉々として陽子を紹介する。 「はじめまして、陽子ちゃん。おばさんはねえ、梨奈のお母さんなの。おばさんとも友達になってくれると嬉しいなあ」  梨奈の母親の柔らかな口調と笑顔に、陽子は警戒心を解いて、扉の陰から出てきた。 「はい。よ、よろしくです」  陽子は腰あたりの服の布地を握りながら、意を決したように話しだす。 「あ、あの! その日傘……お母さんの大事な日傘なんです。ちゃんと綺麗になりますか?」 「ええ、大丈夫よ。おばさんに任せて」  梨奈の母親は腕まくりして見せる。その言葉に安心したのか陽子は目に涙を溜めながら、笑顔で頷いた。 「じゃあ、梨奈も綺麗にするの手伝って。陽子ちゃんもよかったら手伝ってくれるかしら?」 「はいっ!」  陽子は力強い返事と共に頷いた。陽子の顔には涙も不安の色も消えていて、見る人の心を穏やかにするような明るい笑顔が輝いていた――。
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