第一章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

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 日傘のシミ取り作業は難しいものではなかった。  まずは柔らかいブラシで表面の(ほこり)などを落としていく。そして、洗面器に用意していた中性洗剤を薄めた水をスポンジに含ませ、傘の裏から肩を崩さないように手で抑えながら軽く叩くように洗い、シャワーを使い洗剤をしっかりとすすぎ、乾いたタオルで柄や骨の部分の水分を丁寧に拭き取っていく。 「あとはこうやって風通しのいい場所で乾かせば、終わりよ」  梨奈の母親は縁側の日陰に傘を開いたままそっと置いた。そして、わざとらしく額の汗を(ぬぐ)うような仕草を見せる。 「おばさん、ありがとう!」 「いえいえ、どういたしまして」  陽子は日傘の隣に座り、たまに吹き抜ける風に揺れる日傘を笑顔で眺めていた。そんな陽子の姿をやることがなくぼんやりとお茶を飲みながら待っていた涼太が見つめ、その涼太の横顔に台所からお茶の入ったコップを持ったまま梨奈が苦々しい視線を送る。  その三角関係に気付いた梨奈の母親は、「あらら……」と思わずつぶやいた。そして、そんな三人を横目に時間を潰すための用意をはじめ、道具の準備が整ったところで三人に声を掛けた。 「それじゃあ、みんな。乾くまではまだまだ時間あるから、シャボン玉でもして遊ばない?」  その声に三人はバッと梨奈の母親に顔を向ける。 「シャボン玉? やるやるっ!!」  最初に食いついたのは涼太だった。日傘が綺麗になる間じっと待っていて、さらには朝から勉強をしていたストレスが溜まっていたせいか、遊びたい欲求が限界に達していたのだ。 「でも、おばさん。シャボン玉液は?」 「大丈夫、ちゃんと用意してあるから。ほら」  梨奈の母親は、先ほど日傘を綺麗にするのに使った中性洗剤を薄めた水の入った洗面器を三人の前に置いた。涼太をはじめ、梨奈も陽子も洗面器の中を覗き込みながらクエスチョンマークを浮かべる。そんな期待通りのリアクションを浮かべる三人を確認して梨奈の母親は、 「これに、少しだけ洗剤を足して、お父さんのワイシャツなんかに使う洗濯のりを加えまーす」  と、さながら料理番組のように笑顔で説明しながら手を動かしていく。 「さらに、ここにガムシロップを入れて、よーくかき混ぜます」  三人は目を輝かせながら、目の前で繰り広げられる実験にも似た光景に期待値を高めていく。 「そして、最後にこの先っぽに切り込みを入れて(ひら)いたストローを取り出して――」  梨奈の母親は洗面器に作った即席のシャボン玉液をストローの先につけ、縁側から外に向けてふーっと吹いて、シャボン玉を作って飛ばして見せる。 「じゃあ、これやりたい人ー?」  梨奈の母親は同じように切り込みの入ったストローを人数分取り出しながら、三人に尋ねた。三人は我先にと手を挙げ、ストローを受け取るとさっそくシャボン玉を作り始めた。 「こんな狭いところでやっても面白さは半減だから、家の前の道路でやりましょうか」  梨奈の母親の呼びかけに、三人は素直に「はーい!」と返事をして、玄関に向かって駆け出した。梨奈の母親はシャボン玉液の入った洗面器を持って子供たちの後を追いかける。  梨奈と涼太と陽子の三人は夏のよく晴れた空に向かい、シャボン玉を飛ばし始めた――。  通り過ぎる人も三人の楽しそうな姿に思わず頬を(ほころ)ばせ、シャボン玉の行方を同じように目で追った。 「涼太くん、ありがとう」  そんななか陽子が手を止め、涼太に近づいてお礼を言った。 「なにが?」 「日傘のこともそうだけど、日傘を差して下を向いてるだけだと、こんな綺麗なシャボン玉が飛ぶところなんてきっと見られなかった」  陽子の自然な笑顔に涼太は顔を赤らめ、照れ隠しをするように新しいシャボン玉を膨らませる。そんな涼太を見て、陽子もまた楽しそうな笑顔を浮かべながらシャボン玉を風に乗せる。  そんな二人のやり取りをもどかしそうに頬を膨らませて見ていた梨奈は、ストローにたっぷりとシャボン玉液をつけ、涼太の背後に忍び寄る。そして、肩を叩いて振り向いた涼太の顔に向けて、シャボン玉を大量に吹きつけた。  それを見た陽子が声を上げて笑い出した。お腹がよじれるほどに笑う陽子の姿に涼太は怒ることを忘れ、つられるように笑い出す。  笑いの波が収まると、涼太は自分の顔がべたつく不快感に「うわぁあ……」と声を漏らした。それがまたツボに入ったようで陽子はさらに大きな声で笑いだす。すっきりした顔の梨奈も一緒になって笑い出した。 「今度はキミの顔が日傘みたいにベタベタになっちゃったね」  陽子が笑いながら口にすると、 「じゃあ、傘と同じように涼太の顔も水をかけて綺麗に洗ってあげようか?」  と、梨奈が陽子の言葉に乗っかるので陽子はさらに笑ってしまう。 「じゃあ、やれるもんならやってみろや! 水でも炭酸でもかけれるもんなら持って来てみろや!」  涼太も流れに乗ってしまい、梨奈は「こいつ、やっぱバカだ」と言いながら腹を抱えて笑い出し、陽子は笑いすぎて目に涙を浮かべている。  そして、三人はまた競うようにシャボン玉を飛ばし始めた。その液面に映る三人の笑顔は幼く、遊ぶことと笑うことにただ全力だった――。
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