第一章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

4/4
13人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ
 子供たちがシャボン玉遊びをする楽しそうな声が辺りに響き、その声に誘われるかのように一人の三十代半ばくらいの女性が近づいてきた。 「あっ、陽子! やっと見つけた。勝手に出かけたらダメでしょ!」  声を掛けられた陽子は笑顔から明るさが薄れていく。 「あっ、お母さん……」 「うちの陽子がお世話になったようで、本当に申し訳ありません」  陽子の母親は梨奈の母親に向かって深々と頭を下げた。 「いいんですよ。うちの子も楽しんでいたし、気になさらないでください」 「ですが……じゃあ、陽子。そろそろ帰りますよ」 「私、まだ帰らない……ううん、まだ帰れない!」  陽子の母親は、陽子の突然の反発に驚いてしまう。いつもとは違う陽子の様子に戸惑いつつ、同じ目線になるようにしゃがみ込み、「どうして、帰れないかしら?」と事情を尋ねた。陽子は腰あたりの服の布地をギュッと握りしめる。  梨奈の母親が助け舟をだそうとしたそのとき、陽子が突然、深々と頭を下げた。 「お母さん、ごめんなさい!」 「どうして謝るの? 勝手に出掛けたから?」 「違うの。お母さんの大事な日傘、勝手に持ち出して汚しちゃって……」  陽子は声を震わせながら精一杯、事情を説明する。そんな陽子の頬に陽子の母親は優しく触れながら、「いいのよ、それくらい」と優しく微笑んだ。 「あの、おばさん! 僕が悪いんです。ごめんなさい!」  そんな二人のやり取りを見ていた涼太が陽子の隣で頭を下げる。 「どうして、キミが謝るの?」 「その……汚したの僕なんです。怒るなら僕を怒ってください!」 「キミが? それで日傘はどうしたの?」 「それは私のお母さんがキレイにしてくれました。だから、陽子ちゃんを叱るのは……」  今度は梨奈が陽子をかばうように話に入ってくる。そして、そのまま梨奈も一緒になって頭を下げる。そんな三人の様子を見ながら、陽子の母親は笑みをこぼしつつ、一つ大きく息を吐いた。 「大丈夫よ。おばさんは陽子を叱ったりしないわ。だから、三人とも顔を上げて? 陽子もね」  三人は顔を上げて、それぞれの顔を見合わせて笑顔になっていく。陽子の母親は三人の顔を順に見回し、最後に陽子に向けて、笑顔を向ける。 「まだこっちに来たばかりなのに、さっそくいいお友達ができたみたいね」 「うんっ!」  陽子は頷きながら笑顔を弾けさせた。 「陽子ちゃんのお母さん。今、日傘は陰干しをしている最中なので、よかったら乾くまでご一緒しませんか?」 「ええ、お願いします。この(たび)は色々とお世話になったようで……」  陽子の母親は梨奈の母親に小さく頭を下げる。その様子を見ていた子供たちは顔を見合わせ、 「じゃあ、シャボン玉の続きして遊ぼうよ!」  と、涼太が声を掛け、また楽しそうな声が響き始める。そんな三人の姿を、特に自分の娘の姿を陽子の母親は優しい眼差しで見つめていた。しばらく眺めていたが、ふいに隣に立つ梨奈の母親に向き直る。 「あの、自己紹介遅れました。私、陽子の母親で沢井(さわい)と申します。主人の仕事の都合で昨日引っ越してきたばかりで」 「そうだったんですか。それは大変ですね。困ったことがあればなんでも言ってください。私はあの女の子の梨奈の母親の桑原(くわはら)といいます。男の子の方は近所に住む、町谷(まちや)涼太くんです」  梨奈と陽子の母親はお互いに自己紹介をして、軽く会釈をかわす。 「私……親としては恥ずかしいのですが、陽子があんなに無邪気に笑う姿を初めて見ました。そして、帰らないと言われた時は驚いてしまって――」  陽子の母親は陽子のことを目で追いながら、こぼすように話し始めた。 「あの子、昔から引っ込み思案で人見知りで――そんな子が初めて会った子たちとあんなに楽しそうに遊んでいるなんて。今回の引っ越しはあの子にとってはよかったのかもしれない。転校した先でクラスに馴染めるかとか心配だったけど、あの様子だと大丈夫そうだなって思えてきます」 「陽子ちゃんは、どちらの学校に? あと何年生なんですか?」 「四年生ですよ。小学校はたしか近くの公立の――」  陽子の母親が学校の名前を思い出そうと首を捻る横で、梨奈の母親は子供たちに目を向ける。 「この辺りで公立の小学校は一つしかないので、うちの梨奈や涼太くんと同じ学校ですね。クラスも学年で一つしかないですし、あの子たちも同じ四年生なので、きっとすぐに馴染めると思いますよ」 「そうなんですか。それは本当によかった。これから陽子共々よろしくお願いします」  陽子の母親は、子供たちの楽しそうな姿を見守りながら、安心した表情を浮かべていた――。  陽が傾いていき、子供たちの楽しそうな声とシャボン玉は夏の夕暮れに溶けていく。  暗さが増していく空には、涼太、梨奈、陽子の三人のこれからの関係を暗示するかのように夏の大三角が浮かび上がる。  アルタイルは涼太で、梨奈と陽子のどちらがベガになるのか。それとも――。  夏のよく晴れた暑い日に、炭酸水の雨が結んだ関係が、恋愛になるにはまだ早く――。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!