第一節 春嵐に襲われるはインスタントティー

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 今回の帰省は陽子の父親の運転する車に揺られて、さながら沢井家の一員になったのではと思うほど、和やかで穏やかな時間だった。  途中、休憩がてら寄ったサービスエリアでは一緒にご飯を食べたり、陽子の父親とベンチに並んで座って、談笑しながら眠気覚ましのコーヒーを飲んだりとまるで小旅行をしているようだった。  長い移動時間も短く感じられ、翌日の昼過ぎには地元に到着して、家の近くまで送ってもらった。 「送ってもらってありがとうございました。荷物置いたら、すぐに手伝いに行きますね」 「ああ。よろしく頼むよ、涼太くん」  陽子の父親は長距離の運転で疲れた表情で無理に笑顔を作って返事をしてくれた。後部座席でさっきまで隣に座っていた陽子や助手席の陽子の母親はゆっくりと発進する車の中からこちらに小さく手を振ってくれたので、それに応えるように俺も手を挙げながら車を見送った。  それから家に帰り、先ほどの言葉の通り、荷物を居間に投げるように置き、母さんに帰ったこととすぐに陽子の家の引っ越しの手伝いに行くと告げ、財布とスマホの最低限の荷物だけを手に家を飛び出した。  陽子の家は以前と同じと聞いていたので、かつては通い慣れた陽子の家までの道のりを久しぶりに歩いた。しばらく通ることがなかったせいか、変わってないように見える風景も、古い家があった場所が空き地になっていたり、新築なのか改装したのか分からないが綺麗な家もあったりと時間の流れを感じた。  陽子の家が見えてくる場所まで来ると、引っ越し業者のトラックが駐車しているのが見えて、急いで手伝いに加わった。力仕事や雑用など言われたことをこなし、おおまかに片付いたころには窓から見える景色は暗くなっていた。  陽子の両親は晩ご飯の買い出しに車で出かけ、手伝いのお礼にご馳走してくるという言葉に甘え、俺は部屋の隅に畳んだ段ボールが残るリビングのソファーに疲れた体を沈ませていた。 「涼太くん、今日はありがとう。はい、これ。インスタントで悪いんだけど」  陽子が両手に持った紅茶の入ったカップの一つを差し出してくる。それを体を起こして受け取ると、陽子は自分のカップを手に隣にそっと腰かける。 「ありがとう、陽子ちゃん。まだ全部片付いたわけじゃないし、インスタントでも飲めるだけありがたいよ」 「なんかごめんね」 「なにが? インスタントなこと?」 「いや、そうじゃなくて……せっかくこっちに帰ってきたのにゆっくりできるどころか、引っ越しの手伝いで肉体労働させちゃって」 「ああ、そっち? それは気にしなくていいよ。手伝いたくてやったことなんだしさ。それに帰ってくるのに車に乗せてもらったし、ご飯代も出してもらったからね。今も晩ご飯をご馳走してもらえるっていうから、こうやってのんびり待ってるわけだし、俺の方がよくしてもらってるくらいなんだから、いいんじゃない?」  そう言って小さく笑うと、陽子も隣で口元を押さえながら、無言で肩を小さく揺らしている。そんな陽子を横目で捉えながら、紅茶を飲んだら体に染みわたるように芯から温かくなった。  それからカップをテーブルに置いて、 「まあ、そうは言ってもけっこう疲れたけどね」  と、わざとらしく自分の肩や腕を軽く揉みながら口にすると、陽子は噴き出し、笑い声をあげた。 「やめてよ、涼太くん。なんだか、そうやってるとお父さんと同じ年代のおじさんみたいだよ」 「あんまり大差ないかもなあ。今も軽く筋肉痛だし。あっ、でもすぐに筋肉痛になるのは若い証拠なのかな? まあ、こんなんでも陽子ちゃんと同い年なんだよ?」 「その言い方だと、私も若くないってことにならない?」 「そこまでは言ってないよ。だけど、前に陽子ちゃんがここで暮らしていた時に比べたら、若くもないし、体力も落ちちゃったよね」 「それはたしかに……」  ふいに陽子と顔を見合わせて、声を出して笑い合う。大学で再会して、何度も笑いながら話したりしたけれど、今が一番しっくりくる気がする。三人でいつも当たり前のように一緒にいたあの頃のようで――。 「おかえり、陽子ちゃん」  自然とそんな言葉が口からこぼれていた。陽子は驚いたような表情を浮かべるが、すぐに柔らかな笑顔に変わっていく。 「うん、ただいま」  そうはっきりと返事をした陽子の目は、気のせいかもしれないが潤んでいるようにも見えた。  そのままソファーに並んで座ったまま、無言のまま紅茶を飲みながら時間の流れに身を任せていた。不思議と今は言葉は必要ないものだと思えた。それは陽子も同じ気持ちなのだと分かってしまう。  大学で再会して以来、陽子からは自然に振る舞っているようでもどこか無理をしているような違和感や雰囲気を感じていた。今、目の前の陽子から感じるのは、昔と同じように繕わない陽子と接しているような懐かしい感覚。  呼吸の音や、紅茶を飲む音、時折触れる腕や肩から感じる体温。当たり前に近くにいて、それをお互いが当然ことのように感じられる時間と空気感。  それ以上の幸せを求めてはいけない気がしていた――。  しばらくすると、玄関の扉が開く音がして、知らぬ間に近づきすぎていた体を離すように二人して慌てて座り直し、距離を取った。二人の時間は終わりを告げたが、これからは家族の時間が始まる。俺がそこにいていいのだろうかと戸惑ってしまう。  陽子の父親は長年、単身赴任をしていたのだから家族だけの時間というのがより必要なのではないかと思い、買ってきた弁当を受け取ると、そのまま帰ろうとしたが、 「今日は涼太くんには手伝ってもらってお世話にもなったし、そう遠慮なんてしなくていいんだ」  と、陽子の父親に引き止められてしまった。そして、同じ食卓を囲むことになり、さらにはお酒まで勧められてしまい飲んでしまった。 「まさかこうやって、涼太くんと飲む日が来るとはねえ」  陽子の父親は自分のコップに日本酒を注ぎながら口にする。そして、ぐいっとあおり、俺のコップにも日本酒を()ぎ足してくれる。 「涼太くんのお父さんとはたまに一緒に飲んでるけど、不思議な感じだよ。それにうちはお母さんは下戸だし、陽子もあんまり飲めないみたいだし、こうやって飲めるのは嬉しいもんだよ」 「あらあら。こんなこと言ってるけど、お父さんはスーパーで涼太くんとお酒を飲むんだからって、ちょっといいお酒を選んでたのよね」  陽子の母親が楽しそうにばらし、陽子の父親は気まずそうな顔をするが、すぐに楽しそうな表情で日本酒の入ったコップに口をつけていた。  それから陽子の父親と飲みながら色々と話した。アルコールが入り、口が軽くなってきたのか、思い出話や俺の知らない陽子の幼い時代の昔話まで始まった。  最初にこの町に引っ越してきたときは、陽子が馴染めるのかが不安だったが、すぐに友達ができて明るくなったのは本当によかったとしみじみと言われた。さらには陽子の小さいころの写真を見せようかと言い出したところで陽子からストップがかかり、 「涼太くんも疲れてるだろうし、時間ももう遅いし、すぐそこまで送ってくるね」  と、腕を引っ張られる。バタバタと帰り支度をする中で、再度ご飯のことを含め陽子の両親にお礼を言うと、陽子の両親からは感謝の言葉が返ってきた。 「またいつでも遊びに来ておくれよ」  そんな陽子の父親の声を背中で受けながら、陽子に腕を組んだまま家の外に連れ出された。陽子の母親も玄関まで見送りに来てくれて、挨拶を交わし軽く頭を下げるも、陽子はいち早く離れたいようでぐいぐいと俺を引く腕に力を込める。  そして、陽子の家から少し離れると途端に引かれるように組んでいた腕は離れ、歩くペースはゆっくりになり、街灯の少ない暗い夜道を並んで歩いた。いつも以上に暗く感じるのは、都会の明るさに満ちた生活に慣れたからだろうか。そう思いながら空を見上げると、今日は月が見えていないことに気付いた。  そんな月のない静かな夜に、「なんかごめんね」と、隣から謝る小さな声が聞こえた。 「何に対しての『ごめんね』なのか分からないけど、気にしなくていいよ。今日は楽しかったし。あっ、でも、写真が見れなかったのはちょっと残念だったかな」 「そんなに私の子供のころの写真見たかったの?」 「うーん……どうだろう。でも、あんな風にたくさん話したり、同じことで笑えてみたいなのが、楽しくて、どこか温かくて――なんかいいな、って思ったよ」 「そっか。でも、きっと酔ってるだけだよ」 「そうかもなあ」  酒に酔ったのか雰囲気に酔っていたのかは分からないが、分からないままでいいことに思えた。 「もうこの辺でいいよ。あんまり遠くまで送ってもらったら、今度は陽子ちゃんを送るために引き返さないといけなくなりそうだし」 「ははは、そうだね。今日は色々とありがとう。じゃあ……またね」 「うん、またね」  陽子とは街灯の明かりの下で別れた。陽子は小学生のころの面影を感じさせる自然な笑顔で手を振ってから、来た道を戻り始めた。その後ろ姿を見送りながら、聞きなれたはずの陽子の『またね』という言葉の響きがいつまでも耳の奥に残り、懐かしさと嬉しさに胸が満たされた。  春の少しだけ冷える夜も暖かく感じられるほどに、気分のいい静かな夜に思えた。
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