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陽子と別れ、一人になって家路を歩いていると、次第に酔いもさめ、腕や足、腰に明確な疲労を実感してくる。
月のない静かな夜に自分の足音だけが聞こえていたはずが、そこにかすかに違う音と体にわずかな振動を感じた。足を止めるとその正体は明らかで、ズボンに入れていたスマホが着信を告げるために振動していた。スマホを取りだし、画面に映し出された相手の名前は梨奈だった。そして、応答のアイコンをなかなかタップできないでいた。
そんな風に躊躇してしまったのには理由があった。
こっちに戻ってきてから、梨奈にはまだ帰ってきていることを伝えていなかったことを思い出したからだ。それだけでなく、急な帰省になり自分の親以外には連絡してないどころか、梨奈とはここ数日メッセージのやり取りもろくにしていなかった。
梨奈に連絡する時間は作ろうと思えばいくらでもあったが、それをしなかったのはこちらの落ち度かもしれない。しかし、梨奈からも連絡はなかったので、俺一人の責任とは言い切れないところだ。
しかし、このタイミングで電話が掛かってきたということは、おそらく自分の母親が発信源になった俺が帰ってきているという情報が梨奈に伝わったからなのだろう。
後ろめたいことは何一つないが、どうにも嫌な予感がしてしまう。
そんなことを考えている間も着信の振動は続き、まだ肌寒さを感じる夜風に、ほろ酔いでふわふわと温かった身体と気持ちは冷やされて、頭は冷静さを取り戻していく。そして、ゆっくりと画面をタップし、応答して、スマホを耳に当てた。
「もしもし、梨奈?」
『……もしもし、涼太?』
スマホ越しに聞こえてくる梨奈の声はトーンが低かった。そのことで嫌な予感が的中したのだと直感する。だからこそ、いつも以上に言葉を選ばないといけない気がして、頭の中で何を話そうかと考えてしまい、それが結果として梨奈からの言葉を待つ形になってしまった。
『ねえ、涼太。もうこっちに帰ってきてるんだよね? おばさんから聞いたよ』
「ああ、うん。連絡するの忘れてたのは謝るよ。ちょっとバタついてたんだ」
『そう……ねえ、今から少し会えない?』
「分かった。今から梨奈の家に行けばいい? それとも家に来る?」
『……じゃあ、神社の石段のところで』
「分かった」
『じゃあ、あとで』
そう言うと梨奈は通話を終わらせる。梨奈が会う場所にお互いの部屋以外を指定するのは珍しいことで、待ち合わせに指定された神社は毎年正月に梨奈と初詣に行っているあの神社で。
梨奈の言葉の端々から漂ってきた不穏な空気に戸惑いと焦りを感じながら、今は足早に神社に向けて歩を進めるしかできなかった。
神社に着くと、石段に腰かけている梨奈の姿が街灯の明かりの隅に浮かび上がっているのが見えた。駆け足で梨奈の前まで行き、
「ごめん、待たせた?」
と、声をかける。自分が梨奈の正面に立ったことで梨奈を照らしていた街灯の光を遮ってしまい、自分の影に入って隠れてしまった梨奈の表情をうかがうことはできなかった。そもそも顔を上げている気配がないので、はっきりと分かるわけもなかった。
「大丈夫。そんなに待ってないから。私の方がだいぶ早く着いたってことはさ、涼太はどこかに出かけてたっことよね?」
梨奈の声のトーンは低いままで、張りもない。その理由は分からないが、いつもの梨奈でないことは声だけでも分かる。
「あ、ああ。電話が掛かってきたときは、ちょうど家に帰ってる途中だったからね」
俺の言葉に梨奈が影の中で顔を上げ、目が僅かな光を反射させる。その両目がこちらの様子を見ているかのようにまっすぐに見上げてくる。
「へえ、そうなんだ。どこに行ってたの? それに今回の帰省はなんだか突然だったみたいだね。おばさんに教えてもらうまで、帰ってくることすら知らなかったよ」
梨奈の声はわずかに震えていた。こういうときは下手に誤魔化したりせずに、ありのままを話した方がいいと思った。そもそも隠すことなど何一つなく、正直に話したところで何も問題のないようなことなのだから。
「陽子ちゃんの家族の引っ越しを手伝ってたんだ。ここに住んでた頃の家にまた住むことになったみたいで、ついさっきまで陽子ちゃんの家にいたんだ。こっちに帰ってくるのが急になったのも、向こうで引っ越しの荷造りのときから手伝ったりしてたから、その関係でこっちに来る陽子ちゃんの家の車に乗せてもらったからだよ」
「そうなんだ。それでも連絡できないほど忙しかったり、手がふさがっていたわけじゃないよね? それに今の涼太からはお酒の臭いもする」
「それは……引っ越しの手伝いが終わったとに、晩ご飯をご馳走になって、陽子ちゃんのおじさんに飲まされただけだよ」
「なんだか陽子の家族ともすごい仲いいね。あっちで陽子と何かあった? けっこう陽子の家に行ってるみたいだし、よく一緒にご飯も食べてるよね。それに一人暮らしを始める陽子の家も近所なんでしょ? 全部涼太が話してくれたことだよ。普通に考えたらおかしいよね? 何もない相手とこんな感じになんかならないよね?」
「なに言ってるんだよ……梨奈」
梨奈の言葉の意図が全く読めずに困惑してしまう。そして、こちらを見上げる梨奈の目から光るものが流れるのが見えて、言葉を失ってしまう。
「涼太……もういいよ。もういいんだよ……私のために無理しなくても。今は陽子のことが大事なんでしょ? 涼太は陽子のことが好きだったもんね? 長い時間二人でいれば、そのころの気持ちを思い出しても仕方がないことだよ。私はね、そんな涼太の姿を見ているのが――涼太の話を聞くのが辛いよ。ただ信じて待つだけなんて……そうしようって、自分で選んで覚悟も決めたはずなのに、今はそれがとても苦しいし、後悔もしてる。だからさ、涼太のことを楽にしてあげるよ。もっと早くに気付いてあげれなくてごめんね」
「……な、なにが言いたいんだよ。梨奈、お前は……お前は――」
何か勘違いしてる――。
その言葉を伝える前に、梨奈の口から聞くと思っていなかった言葉が発せられる。
「だから、別れよう。涼太」
世界が止まってしまったのではないかと錯覚してしまうほどに、俺と俺の世界は動きを止め、ゆっくりと時間だけが流れていた。
どうして梨奈が別れを告げたのか分からなかった。
俺と梨奈は幼馴染で恋人で、お互いに顔を見たり声を聞くだけで、何を考えているのかだいたい分かった。目を見合わせれば、言葉を使わなくとも意思の疎通もできることもあった。
それなのに、今は――梨奈の目から流れ続ける涙を見ても、震える声を聞いても、何も分からない。
「涼太、今までありがとう。これからは涼太が今、想っている人のことを精一杯大事にしてあげて……」
梨奈は立ち上がり、俺の脇を抜けて走り去っていく。
梨奈の言動の意味が分からなくて、梨奈の言葉の意味を理解したくなくて、ただ走り去る後ろ姿を見つめることしかできなかった。追いかければ、おそらくすぐに追いつくことはできる。だけど、こうなってしまった理由も掛けるべき言葉も思い浮かばない俺は、追いかけることができなかった。
そして、梨奈の姿は夜の闇に溶けていった。
俺は梨奈と付き合いだしてからは特に、梨奈のことを一番に考え、大事にしていたつもりだ。後ろめたいことも隠したいこともないので、全部話してきた。だからこそ、想いも含めてちゃんと伝わっているとばかり思っていた。
だからこそ、何も伝わっていなかったという事実がショックで、梨奈のことだけでなく自分自身のことさえ見えてないように思えてしまい、何も分からなくなってしまった。
立っていることさえ辛くなってきて、梨奈がさっきまで腰かけていた神社の石段に力なく腰を下ろした。
座り込んで梨奈の言葉を思い返しながら、最近の出来事を振り返った。たしかに、梨奈とは気まずい感じになっていた。そして、陽子や陽子の家族の引っ越しなど大きなことも重なった。それでも梨奈にあんなことを言われる道理はなかった。
こんなにも取り返しがつかなくなるほどの、すれ違いや軋轢をどこで生じさせてしまったのか、いくら考えても分からなかった。
頭の中が混乱して、何も考えられなくなり、なんとなく空を見上げた。そこにはただただ綺麗な星空が広がっていた。新月の夜だからか、星の明るさがいつも以上に感じられ、普段は見えないような星まで見えている気さえした。
そもそも空をこんなにもじっくりと見上げるのはいつぶりだろうか。長らくちゃんと見ていなかった気がしてくる。この町では星が本当によく見える。
「ははは……なんでこんなときに星を見て綺麗だなんて思っているんだろう……」
空を見上げたことで頬を伝った温かい筋も、いつの間にか世界が水に沈んだように揺らいでいるように見えるのも、全てがバカらしく思えた。
だから、笑えない心境のはずなのに、笑うことしかできなかった。
こんなにも頭の中も心の中も嵐が吹き荒れ、ぐちゃぐちゃになっていても時間は停滞することなく流れていく。
今は夜が深まるばかりだが、いずれは朝がやってくる。朝になり陽が昇ると、空は次第に明るくなっていき、星は輝きを失い、見ることができなくなってしまう。
だけど、実際は明るくなった空の中でも星は変わらずに煌めいている。
それはどこで見上げる空でも同じで、見えないだけでずっとそこにあったのだ。
その煌めきを追いかけることを諦めきれない俺は、静かな月のない夜にもう一度星を掴もうと決心した――――。
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