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第二節 春に初恋の結末を見届けるはレモンティー
陽射しに暖かさが感じられるようになりつつも、肌寒さが抜けない冬と春の境目。
久しぶりに帰ってきたこの町で、また暮らすようになったこの家で朝を迎えた。
かつては見慣れた自分の部屋の天井だったはずなのに、久しぶりに見上げるそれはとても新鮮で初めてのようにさえ思えた。
だからか、初めて見た日の記憶が蘇ってくる。
あの頃は引っ越しがどうこうよりも、ただ不安しかなかった。
元々人付き合いが苦手な私は、それまで通っていた小学校では友人と言える人はいなかったかもしれないが、それでも顔見知りやクラスメイトという繋がりはあった。それがいきなり転校し、周囲の環境や人間関係がリセットされ、自分の知っている人や物が一切ないということが、不安や恐怖といった感情を濃くし、いつも以上に憂鬱な気分になっていた。
引っ越しのためにこの町に着いたのが昨日の夜で、朝起きて、自分の部屋の窓から初めてちゃんとこの町を見た。見渡す限り高い建物がなく、なによりとても静かだった。窓を開け、吹き込んでくる風は心地よくて、胸いっぱいに吸い込んでも嫌な臭い一つしなかった。大きく伸びをしながら見上げた空はとても高く澄んでいて、空が広く青いものだという当たり前のことをそのときはじめて理解できた。
気が付けば寝る前まで感じていた負の感情はどこかに吹き飛んでいき、私の気分は空模様と同じでとても晴れやかで清々しいものになっていた。
その日の午前中、引っ越しの荷解きを手伝っていたが、まだ幼かった私に手伝えることは少なく、昼食休憩を挟んでも、部屋の隅で両親が忙しそうに片付けている様を邪魔にならないように眺めることしかできなかった。
退屈と朝からみなぎっているやる気と活力を持て余した私は、「散歩してくる」とだけ伝え、玄関脇に積まれた荷物の中にお母さんの大事にしている綺麗な刺繍の施された日傘を見つけ、それを手に家を飛び出した。
これから住むことになる町を、散歩と称した冒険をしたくなったのだ。
私は目に映る全てに興味を惹かれ、柵を挟んで犬と向かい合って睨めっこしたり、小川を流れる透明感のある水を眺めたり、民家の塀からはみ出した花の匂いを嗅いでみたりと、あてもなく歩いた。
しばらく歩いていると、足元の舗装がアスファルトから石畳に変わる場所に行き着いた。石畳が綺麗に敷き詰められた道に物珍しさを感じ、そのまま足元を見ながら進んでふいに顔を上げると、左右に立ち並ぶ建物は今風ではない古民家が並んでいた。
知らない世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を感じながらも、私の気持ちと歩く足は軽く、風に乗って飛べそうな気さえしてくる。
そんな風に前と左右と足元しか見ていなかった私に、日傘で見えない夏の晴れた空から降ってきた男の子の慌てた声と炭酸水の雨――。
全てはあの時からだった。私の、沢井陽子という人間の人生はその瞬間から始まったと言ってもいいほどに、世界は色づき、輝き始めた。
窓を開けて、この町の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
引っ越しの片付けは昨日のうちにあらかた終わってしまったし、自分の荷物は一人暮らしをする部屋に持って行ったため、あらためて片付けるほどの量はなかった。ただ少しの本や衣類などを整理するだけ。
私の部屋の整理は昼前には終わってしまい、昼ご飯のあとに片付けを手伝った。その後、キッチンでキッチンの収納や配置に頭を悩ませていたお母さんに、「何か手伝おうか?」と声をかけるも、大丈夫と言われてしまい、いよいよやることがなくなってしまった。
「じゃあ、少しだけ散歩してくるね」
と、お母さんに声をかけ、いつかのように引っ越し早々、家を抜け出した。
この町を歩くのは、高校の修学旅行以来なので、だいたい三年半ぶりだろうか。あのときも今と同じように思い出に浸りながらも、変わらないものに懐かしさを感じ、変わってしまったものに寂しさを感じた。
高校生の時の私はこの町で知り合った大切な幼馴染で友人の町谷涼太と桑原梨奈の二人の関係の変化を見かけて、予想はしていたが目の当たりにした現実を受け入れるほどの心の余裕はなく、頭が真っ白になった。
でも、今は二人の関係を理解しているし、同じ大学に通う涼太から私の知らない高校時代の二人の話を聞いたりもした。話の中の二人は相変わらずいつも一緒で仲が良くて、中学三年生の私の選択は間違ってなかったのだと再確認させられた。しかし、中学三年生の私もさすがに、大学で涼太と再会し、また以前のように仲良くなり、さらにはこの町に帰ってくることになるなんて思いもしなかっただろう。
久しぶりの風景を懐かしみながら歩き、舗装が石畳に変わる少し手間にある雑貨屋の前を通り過ぎる。店の中を横目でちらりと覗くと、相変わらずおばさんは客と何やら話し込んでいるようだった。ただ記憶にあるおばさんの姿よりだいぶ歳を取ったように見えて、時間の流れを実感する。
そのまま歩き続け、涼太や梨奈の住む古民家が立ち並ぶ地域までやってきた。
ここだけはやはり特別なものを感じる。時が止まっているかのように目立った変化がなく、懐かしさばかりがこみ上げてくる。
夏の晴れた日に日傘を差して歩いたら、また空から雨とは違う何かが降ってきそうだ。
しかし、今は夏ではないし、日傘も差していない。そして、当然のことながら今日は空から何も降ってくることはなかった。何も起きなかったことに対して、内心で残念がってしまっている自分が少しだけおかしかった。
炭酸水の降ってこなかった家の前からさらに歩を進め、少し行ったところで足を止める。そして、建物の陰から、いつかの夕暮れにシャボン玉を飛ばして遊んだ路地を覗き見る。
そこにはただ誰もいない道が伸びていて、今度は何もなかったことにホッとする。まだ梨奈とどんな顔で何を話せばいいか分からないだから仕方がないと、誰にするわけでもない言い訳だけが先に思い浮かんだ。
そんな成長できない自分に嫌悪感を抱きながら、とぼとぼと歩いていくと、初詣などでよく来た神社の屋根が見えてきた。久しぶりにお参りでもしようと神社に近づくと、神社の石段に見慣れた男の子の姿があった。
「涼太くん?」
涼太は石段に力なく腰かけ、俯いていた。そんな昨日別れた時とは表情も雰囲気も全く違う姿に思わず声をかけてしまった。涼太は驚いたように顔を上げ、私だと確認すると視線の向く先はすぐに地面に戻った。
「どうしたの? なんだか元気ないね」
「まあ、色々とあってね。陽子ちゃんこそ、こんなところでどうしたの?」
「私は久しぶりに帰ってきたから、散歩してただけだよ」
私の言葉に薄い反応しか示さない涼太に違和感を覚える。違和感を感じる原因はそれだけでなく、まだ肌寒いこの季節に涼太は薄い長袖シャツ一枚で上着を羽織っていなかったからかもしれない。肩や膝が小刻みに揺れていて寒いはずなのに、今の涼太にとっては大したことではないのだろう。
そして、今までに見たことがないほどに曇った表情をしているので、何かあったことは疑う余地がないほどに明らかだった。
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