最終章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

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最終章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

 季節が幾度か巡り、今年もまた夏がやって来た。  終業式を終え、生徒たちは夏休みを目前にして目に見えて浮かれ気分だった。きっとこれから先の未来が光に満ちているように見えているのだろう。  そんな中学三年生の生徒たちの前に今、私は立っている。 「はい、みんな! 静かにして!」  私の言葉に注意と視線が集まるのを感じる。 「みんなが楽しみにしている通り、明日から夏休みが始まります。だけど、みんなは三年生で受験生です。なので、夏休みに遊んでばかりいられないのは分かっていると思います――思います」  わざと繰り返しながら教室を見渡すと、数人が視線を合わすまいと露骨に逸らしている。その多くが元気があるというか、ありすぎるタイプで――それはまるで、私が目の前の生徒と同じ年だったころにいつも一緒にいた二人のような快活な子たちだ。 「まあ、先生の立場からすると勉強をしなさいと言うしかないのだけれど、私も君たちと同じ年頃だったことがあるから気持ちは分かるからなあ……勉強は大事ですけど、そればかりでは息が詰まると思うので、遊びすぎないようにしっかり考えて過ごしてくださいね」  教室内からはくすくすと笑う声が聞こえてくる。表情を見るだけで、緊張が緩んだのが分かる。そんな生徒たちの顔を見ながら、同じ教室で逆の立場だったころのことを思い出してしまい、こっちまでつい口元が緩んでしまう。 「この夏休みの間に、進路についてもしっかり考えてくださいね。たかが進路と思うかもしれないけど、将来につながる大きな選択だということは忘れないでください。もし一人ではどうしていいか分からないだとか、決めきれないと思うなら、誰かに相談しましょう。それは保護者の方でもいいし、先生でも友達でも構いません。自分のことは自分で決めろと言われるかもしれませんが、相談すること、頼ることは決して悪いことではありません。いざという時に、相談できる相手がいるということが大事なことなんです」  私が話し始めたことで、教室は静かになり、生徒の表情に緊張感が戻ってくる。そんな空気感を感じながら一息ついて、私は話を続ける。 「みんなはこれから先、高校への進路以外にも色々と選択をすることになるでしょう。これからの人生で避けられない選択を迫られることがたくさん待ち受けています。例えば、分かりやすいところだと、三年後にみんなが高校三年生になったら、進学か就職かという選択をしなくいといけないのは分かるよね? そんな風に、人生に関わる選択はいっぱいあります」  そこまで話すと、一人の男子が手を挙げながら「他には、どんなことですか?」と軽い調子で尋ねてくる。 「そうだなあ。例えば、人間関係や恋愛とかかな」  私の回答にざわっとする。多感な時期だけあって、恋愛というワードには興味があるようだ。 「人間関係でいえば、みんなが同じ高校に行くわけではないでしょ? それぞれが自分で選んだ高校を受験して進学するわけだけど、今みたいにみんながこうやって(そろ)うことって、難しくなるよね。もしかしたら、中学校を卒業すると数えるほどしか会えなくなる人もいるかもしれない。それが選択した結果というわけね。恋愛も同じ。誰かが誰かに告白するということも選択と言えるし、それを受け入れるのも断るのも選択になるの。人生は細かな選択の連続なんだよ」  話している内容にピンときていない顔をした生徒が多い。それでも私は続ける。 「まあ、分かりやすいところだと、この後、学校帰りに寄り道するかしないか、というのも選択だよね。でも、寄り道はダメなのは分かってるよね?」  教室内にまたくすりと笑みがこぼれる。 「だからね、今じゃなきゃできないことがあること、何かを選んだことでできなくなることだってあるということを心のどこかで覚えていてほしいの。そして、十年後か二十年後か、ずっと先の未来の自分があのとき、この(みち)にしてよかったと後悔しないような選択を選び取ってほしいと、先生は思っています」  一通り伝えたいことは話し終えたが、きっと私の言ったことは今は半分も理解されないだろう。だけど、いつか何か選択で立ち止まることがあったら、中学三年の夏休み前に変なことを言っていた先生がいたなと思い出すくらいでも、記憶のどこかに残っていればいい。そして、それが前に進むための一つの手がかりになればと願ってしまう。 「先生! なんか卒業式で話すようなこと言ってない?」  ある生徒がそんな風に茶化したことで教室はドッと沸き、「たしかにそうね」と、私も応えながら一緒になって笑った。  私にとっては、大事な出会いも別れの選択をしたのも全てが夏だった――。  だから、今の時期だからこそ伝えたい言葉だった。  私はあらためて生徒たちを見渡してから、 「はい! じゃあ、堅苦しい先生の話はこれでおしまい! 休み中の登校日は忘れないように気を付けること! それじゃあ、中学最後の夏休みを精一杯過ごしてください。日直、お願い」  と、話を終わらせる。そして、日直の生徒の「起立、礼」の号令の後、教室内は熱気と活気に包まれる。  その若さ溢れる光景を横目に、出席簿や余ったプリント類など教壇の上を整理していると、数人の女子生徒が近寄ってきた。彼女たちは私に懐いてくれている生徒たちで、「陽子先生は夏休みはどうするんですか?」と親しみを込めて尋ねてくる。 「先生には夏休みはあんまり関係ないからねえ。みんなは休みでも、先生は学校に来たりだとかしないといけないのよね。それに、夏祭りの日もみんなが変なことしてないかとか、トラブルに巻き込まれてないかって、見回りもしなきゃいけないし大変なのよねえ」  そうわざとらしくため息交じりに話し、 「他の先生よりは大目には見てあげるけど、あまりハメを外しすぎないようにね? 本当に頼むよ?」  と付け加えると、「はーい」という気の抜けた返事と笑い声が返ってきた。私も笑みを返すと、女子生徒の一人が、 「陽子先生。この夏、何かいいことあるといいね」  と、笑顔で言われる。その表情に大切な幼馴染の女の子の中学校時代の顔が重なって見えた。 「ありがとう。あなたたちも何かいいことあるといいね」  そう返事をして、生徒たちと顔を見合わせて、小さく笑い合った。笑いの波が収まると、「じゃあ、先生。さようなら」と挨拶をされ、彼女たちは話しながら荷物を取りに席に戻っていった。  私はもう一度教室の楽しそうな光景に目をやり、まとめたプリントなどの荷物を抱えて、職員室に戻るために教室の扉を開けた――。  私が教師になろうと思った一番の理由は、中学三年生の夏にした選択を後悔していたからだった。選択したことは変えられないし、その先にどんなに後悔しても受け入れるしかできないことを身をもって理解している。  だからこそ、誰かが選択をする際に後悔しないような選択をできるように手助けしたいと思い、教師という路を選んだ。教員免許の取得の過程で高校の教師という選択もあったが、教師になろうとしたきっかけや人生の転機が中学生時代の私の選択だったということから、中学校の教師になるということにこだわった。  そして、現在。無事に夢は叶い、中学校の国語教師になり、なんとかやっている。  赴任した学校は今が二校目で、二校目にして、いつかはここでと思っていた慣れ親しんだ母校で教鞭を取ることになった。そして、母校に勤め始めて二年目の今年、教師生活で初めて三年生の担任を任された。  教師になろうと目指し始めたころから、三年生の担任になったら、夏休みを控えたこのタイミングで生徒たちに選択の重要さと注意点を伝えたいと漠然と思っていた。  そして、それを実行に移したというわけだ。  毎日が忙しく、自分のために()ける時間がなかなか取れないが、それでもとても充実した日々を過ごしている。そんな生活がゆえに、学校と家の往復以外はほとんどすることがなく、仕事関係以外で出会いというものが一切ないことも加わり、色恋沙汰とは無縁な日々を送っている。  しかし、今はそれでいいと思っている。仕事はやりがいもあり楽しいし、まだまだ慣れないことも多く、精神的な余裕もなかった。まして、今は初めての三年生の担任で、優先すべきは自分よりも人生の岐路に立つ生徒たちなのだから。  私の恋愛の遍歴は、初恋の終わり以降は目立った更新はされていない。  初恋を引きずっているというわけではないが、それでも初恋を超えるような、またはそんなことを意識しなくても自然に惹かれてしまうような出会いを私はまだできていなかった。だから、今は恋愛はお休み中で――。  でも、いつかはまた私も誰かと恋をするのだろう。  これは私の選んだ路の辿り着いた場所だが、ここで終わりというわけでなく、路はまだ先に続いているのだから――――。
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