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第二章 秋の夕暮れを染めるはレモネード
沢井陽子がこの町に引っ越してきて、仲良くなったあの夏から三年と少しが経った。
あの日から毎日のように一緒に過ごし、私たちは中学生になって一度目の秋を迎えていた。
二度目の衣替えをするころには、良く言えば歴史を感じる三階建ての校舎で特別教室の場所に迷うこともすっかりなくなった。
私たちが通う中学校では部活への所属が義務付けられていて、私は陸上部に涼太は野球部、陽子は美術部にそれぞれ入部した。
私と陽子はいまや親友と言っていい関係で、毎日のように一緒に登下校をしている。それは小学校の時から変わらない。中学生になってからは、放課後、先に部活の終わることの多い陽子が待ってくれていた。グラウンドを見渡せる場所にある校舎脇のベンチに座って、柔らかな笑顔をグラウンドに向けながら。
私は自分の練習の合間に、ベンチに座る陽子の姿と、野球部の中でもひときわ大きな声を出しながらグラウンドで最後まで残って練習に励む幼馴染を横目で追っていた。
「さすがに今日は私の方が早かったか」
その日は陸上部の顧問の先生が出張でおらず、普段より早く練習が終わった。そして、いつもは陽子が待つベンチに座り、グラウンドで汗を流す幼馴染の姿を見つめる。
「今日もがんばってるなー」
小声で称賛と応援の言葉を送ると、私の視線に気が付いたのか、横目でこちらを見ながらグローブを付けていない右手でこっちに向かって隠れてピースサインを送ってくる。
「ばーか」
そのピースサインに小声で応えながら自然に笑みがこぼれてくる。そして、ふともう一人の大事な親友を迎えに行くついでに、今日は私が部活に励む姿を見に行こうと思い立った。
グラウンド近くの昇降口で靴を脱ぎ、スクールバッグを投げるように置く。上履きに履き替えるのは面倒で、靴下のまま校舎の三階端にある美術室へ向かった。
校舎内は静かなようで、グラウンドから聞こえる運動部の声に、吹奏楽部の練習する音が響いていた。そんな普段は味わえない環境が楽しくて、階段を上る足が軽くなる。
三階まで軽やかに駆け上がり、開いたままになっている美術室の扉から中をゆっくりと覗き込んだ。しかし、いると思っていた姿はそこにはなく、代わりに一枚だけ開いている窓から入ってくる風に柔らかくなびいているカーテンが目に入った。
美術室の中に足を踏み入れ、その開いたままになっている窓に近づいていく。窓のすぐそばには椅子とイーゼルに載せられたスケッチブックがあり、その近くの机の上には描きかけのデッサンのモデルの石膏像が、床には陽子のスクールバッグが置かれていた。
「陽子って、やっぱり絵うまいなあ」
スケッチブックに描かれた絵を見ながら、思わず声が漏れる。昔から絵がうまいと思っていたが、見たことがあったのは夏休みの宿題などで描いた啓発ポスターと授業で描いた絵くらいだった。
陽子に見えている世界を感じたくて椅子に腰かけてみると、吹き込んでくる風に乗って、外から部活に精を出す声が大きく聞こえてきた。その中に聞きなれた声が混じっているのに気づき、思わず笑みがこぼれる。
椅子に座ったまま窓の外に目をやると、グラウンドが一望でき、野球部の練習している姿がよく見えた。
「ここから見ても、声だけじゃなく目立ってるなあ、あいつ」
自然と頬が緩むのを感じる。この時間に美術室に来ることがないので、私にとってこんなにも眺めがいい場所があるなんて知らなかった。
そうやって、しばらくぼんやりと特等席ともいえるこの場所から涼太の勇姿を見つめる。
そして、ふいに気付いてしまった。
陽子もこの椅子に座って見える景色を私と同じ気持ちで見ているのではないだろうか。それは校舎脇のベンチでも同様で――。
そう思うと、急になんだか胸が苦しくなってきた。その落としどころも向き合い方も分からない感情に心と頭を悩ませていると、
「あれ、梨奈? こんなところでどうしたの?」
と、驚いたような表情を浮かべながら陽子が美術室に入ってきた。
「えっと……そう! 今日は私が陽子を迎えに来たのよ」
と、急いで笑顔を作って見せる。最初こそ驚いたような表情を浮かべていた陽子の表情がみるみると明るくなり嬉しそうな笑顔に変わる。
「そうなんだ。ありがとう、梨奈」
さっきの自分の言葉に嘘はないはずなのに胸が痛くなる。
「それで、どこに行ってたの?」
「先生に呼ばれて、職員室に行ってたの」
「なになにー? 何か呼ばれるようなことしたのー? 私なんかこの前呼び出されたのは、掃除時間に同じ班の涼太たち男子とホウキで野球やってるの見つかった時だったかなー。それはもう、すっごい怒られたよ」
「梨奈、男子に混じって何やってるのよ」
陽子は声をあげて笑い始め、私も一緒になって笑う。
「私が職員室に呼ばれたのは怒らるためじゃないよ」
「そうなの? 怒られる以外にも呼び出されることがあるんだね。それで何があったの?」
「美術部って、三年生の先輩が引退してから、私一人になったのね。それで二年生になったら廃部にして別の部に入るか、来年新入生が入るか分からないけどそのまま続けていくか、っていう話をしてたんだよ」
「へえー。それで陽子はどうすることにしたの?」
「続けるよ。私、絵描くの好きだし、それに――美術室も好きだからね」
陽子は描きかけの絵に触れながら、照れくさそうにはにかんでいる。
「そうなんだ。一人で寂しいかもしれないけどがんばって! あとさ、私にできることあったら何でも言ってね?」
そう胸を叩いて見せると、「いつもありがとう、梨奈」と陽子は目を細め笑みを浮かべる。それは同性の私でも思わず見とれてしまいそうになる。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。片付けるからちょっと待ってて」
「うん。何か手伝うことある?」
「うーん……大丈夫だよ」
陽子はイーゼルと描きかけの絵をそのまま内扉で繋がる隣の美術準備室に運び、次に石膏像を重そうに抱えて持って行く。その間に何もせずに待っているなんてできず、椅子を片付け、床に置いてあった陽子のスクールバッグを拾い上げ肩に掛けた。そして、先に美術室から半歩外に出て、陽子を待つことにした。
美術準備室から戻ってきた陽子は、開いたままになっている窓に近づき、そっと手をかけながらグラウンドに視線を向ける。陽子の頬や口元が緩んでいるのが見えた。
そんな横顔を見た瞬間、「あっ、やっぱりそうなんだ」と確信めいたものがあった。
きっと陽子は私と同じ気持ちでグラウンドを見ている。だからこそ、どうしようもないほどに分かってしまう。陽子も涼太のことが好きだということを――。
陽子が窓を閉めていると、吹き込んだ風に長く柔らかな黒髪がふわりと舞った。そのなびいた髪をそっと押さえる白く細い綺麗な手と指。その女の子らしさにいつも以上に羨ましさを感じてしまう。
それに比べて、私は――。
自分の短い髪の毛の襟足にそっと触れ、小麦色に日焼けした肌に目をやり、その差に落胆してしまう。
「梨奈ちゃん、どうしたの? 帰ろ?」
その声にハッと驚いて、顔を上げると、陽子は心配そうな表情を浮かべながらすぐ正面に立っていた。
「なんでもない、帰ろっか」
美術室の鍵をかけた陽子にスクールバッグを渡し、並んで一階に向かう。運動部の声や吹奏楽部の練習する音が変わらず聞こえてくる校舎内で、美術室に来た時とは逆に重たく感じる足と気持ちでゆっくりと階段を下りていく。
一階まで来ると、陽子は「鍵返してくるね」と職員室に向かった。私は昇降口に投げっぱなしになっている自分のスクールバッグを拾い上げる。そして、靴を履いて外に出て、立ち止まった。
いつものように私の目はグラウンドで汗を流す涼太を追ってしまい、いつも以上に胸が締め付けられる。
「お待たせ、梨奈」
そんな私の気持ちに気付いているのか気付いていないのか、いつものトーンで陽子が声を掛けてくる。
そして、私と陽子はいつものように二人並んで歩き出す――。
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