最終章 夏の晴れた日に降るは炭酸水

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 石畳が敷き詰められたあまり広くない道の両側に、かつて酒造と製塩で栄えた江戸時代後期の建造物や古民家が今なお立ち並ぶ、そんなノスタルジーさを感じさせる町並みの中を白いレースの日傘を差した人影が進んでいた。  爛々と降り注ぐ夏の陽射しを遮るその影で、大人になった少女は迷いなくまっすぐ前を向いて歩いていた。  最初の一回以降、炭酸水が降ってくることのなかった民家の軒先を通り過ぎ、一軒の古民家の前で足を止めた。  玄関の脇に掛かっている“町谷”という表札をチラリと見て、古い建物の外見には似つかわしくないインターフォンを押すと、中からゆっくりと足音が近づいてくる。 「はーい」  明るい声とともに玄関の引き戸が開けられ、中からお腹の膨らみが目立つようになってきた幼馴染の女性が顔を出した。  そのお腹の大きな女性は初めて二人が出会ったころのような短めの髪を小さく揺らしながら、太陽のような笑顔を浮かべる。そこに柔らかさが混じったように思えるのは、彼女が大人になったからだろうか。それとももうすぐ母親になるからだろうか。 「ああ、やっぱり。そろそろ来る頃だと思ったんだ。上がって、上がって」 「うん。それで、身体は大丈夫なの?」 「もちろん。ずっと立ちっぱなしや歩き回るとかはさすがに辛いけど、買い物や家事はお母さんが代わりにしてくれるし、何もすることがなくてヒマでヒマで。何もしてなさすぎて、逆にストレス溜まりそうなくらいだよ」  そう言って笑う顔は昔から変わっていなくて、そんな表情を見るだけで自然につられて笑ってしまう。 「そうそう。頼まれたもの買ってきたよ」  この家に来る道すがら、足元が石畳に変わる少し手前にある雑貨屋で買ってきたものを袋ごと机に置いた。昔は私もよく飲んだ炭酸飲料を数本に、あとは瓶ラムネが二本。 「それにしても、この炭酸まだ飲んでるんだね」 「まあ、基本的にあいつはずっと子供のままだからね。特に味覚は」 「相変わらずだね。それで、ラムネも?」  ラムネという単語を聞いて、目の前の彼女はニヤリと何かを企んでいるような、楽しそうな表情を浮かべる。 「そんなの、何に使うかなんて決まってるじゃない――」  その言葉に昔、一緒に仕掛けた悪戯の記憶が蘇る。 「でもさ、夏祭りは三日後でしょ?」 「いいの、いいの。ここ最近、ずっと準備とかいろんな名目で毎日のように集まりがあるみたいでね。とはいっても、結局は飲みたいだけの口実なんだけど。それで飲まされたりとか、連れ回されたりだとかしてるみたいで、なかなか家に帰ってこないのよね。未だにここらの大人からは、“町谷の涼ちゃん”って、呼ばれながらかわいがられてるのよ」  その光景は容易に想像できた。困ったような表情を浮かべつつも、結局は楽しそうに地元の大人たちに囲まれて笑っている彼の姿。大人になっても、同じ分だけ歳を重ねた相手からはいつまでもかわいい地元の子供という認識は消えないのだろう。一緒にお酒を飲めるような年齢になったことが、さらにかわいがられる要因になっていそうだ。 「それで今日は久しぶりに真っ直ぐに家に帰ってきて、ゆっくりできるみたいなの。それに今年の夏祭りは、この身体じゃあ、ちょっとねえ……だからさ――」  彼女は近くの壁際に置かれていたビニール袋に手を伸ばして引き寄せ、中から手持ち花火の詰め合わせを取り出してこちらに見せてくる。 「これ。花火は楽しみたいじゃない? どうせ私がこんな身体じゃなくても、当日ゆっくりと三人で花火を見上げるなんてできないんだしさ」 「それもそうね」  そのまま顔を見合わせて、二人で笑い合う。  三人で夏祭りに行ったのは、中学三年生の夏が最後だった。高校時代は私はこの地域にいなかったし、こっちに再度引っ越して以降は恋人になった二人の仲睦まじい姿を見せられるのが嫌で一緒には行かなかった。  社会人になってからは、私は教師として会場の見回りに駆り出され、ここにいない彼は市役所の職員として、目の前の彼女は観光協会の仕事で、それぞれがそれぞれの場所で祭りに関わり、花火を見上げ楽しむ側ではなくなった。  幼馴染の二人は私と彼が最初で最後のキスをし、私の初恋が終わったあの日のうちに無事に恋人関係に戻り、今の状況に至っている。私は二人の邪魔をしたくないというもっともらしい言い訳を二人に、自分には気持ちを整理するためにと、二人から再び距離を取ろうと思っていた。  しかし、一人暮らし先に帰る前に二人に呼び出され、私さえよければまた三人でまた話したり笑ったりしたいと言われ、断る理由もなくなっていた私はそれを受け入れた。  それを契機に、少しずつ関係は修復されていき、数年かけてあの頃のようなただ大切で仲がいい関係に戻ることができた。  そして、私は二人の晴れの日に友人代表としてスピーチをさせられることにもなった。  尽きない会話に、懐かしい思い出話。  この町は――二人との関係は、とても居心地がよくて、自然体でいられる大事な場所だ――。  どれくらいの時間が経過しただろうか、ふいに彼女のスマホがメッセージを受信した通知音が鳴る。 「あいつ、そろそろ帰ってくるってさ」  スマホの画面をこちらに向ける彼女の笑顔は、ついさっきまでより明るさが増す。  そして、ラムネを手に立ち上がり、私に支えられながら階段をゆっくりと上がり、二階の部屋の窓際に二人して身を隠した。電気も点けていない暗い部屋の中で息を殺し、わずかにどこからか漏れてくる光を頼りに顔を見合わせてクスクスと笑い合う。  目の前の彼女は子供のような楽しそうな表情で笑っているが、私は本当にこんなことをしてもいいのかなと、同じ悪戯を仕掛けた前回と同じ心境になる。  影から様子を伺っていた彼女が、何も知らずに帰ってくるもう一人の幼馴染の姿を視界に捉える。 「せーーのっ!!」  その言葉とともに、炭酸水の雨が降り注ぐ。 「うわぁぁああ!! ちょっとまじかよっ!」  そう言いながら、見上げてくる彼の焦った表情を見ながら、私たちは笑い声をあげる。  すぐに状況を理解して笑い出した彼に、隣の彼女が声をかけた。 「着替えたら、三人で花火しようよ!」  今年も夏の夜空には、夏の大三角が浮かび上がる。  夏のよく晴れた日に炭酸水によって結ばれた関係は、今もこれからも確かな輝きを放っていく――――。
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