冷たい彼女

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 私がパンを(かじ)る間に、何やらガタゴトと動く気配が聞こえる。  仕方なく顔を向けると、彼は席を移っていた。  一つ隣の机へ移動して、やはり横目でこちらを見る。 「そこは相沢さんの席でしょ?」 「許可は貰いました」  ならいいか、と言うとでも?  どうも落ち着かなく、クリームパンがカサカサに乾いたみたいだ。  もう一人の新人は大人しく自分の世界に没頭してくれているのに、どうして彼は私の昼を邪魔するのだろう。  ちょっと無遠慮に過ぎるんじゃ?  その席で二日食事を取った加嶋くんは、翌日、さらに隣へ移動した。  部屋の中央近くになり、彼の弁当のメニューが覗けるくらいに近い。  相変わらず許可は得たと言う彼へ、それ以上は絶対に近づくなと警告する。  あんパンが温くなったように感じて、昼食が一気に苦行になった。  頼むから、冷たい食事をさせてよ。  いつまでも学生気分で楽しいランチを夢見たりせずに、ちゃんと成長してほしい。  そんなことまで教えないといけないのか?  教育係は、親代わりではないってのに。  一応、彼は言い付けを守り、三日ほど位置を変えはしない。  代わりに奇天烈な行動に打って出た。  咳ばらいをする加嶋くん。  見てやるものかと無視していると、しつこく二度、三度と繰り返される。  渋々見遣(みや)ると、そこには髭の男がいた。 「なん……」  付け髭に黒縁メガネの彼が、真顔でこっちを向いている。  見なかったことにした。  髭にコメントすると負けた気がする上に、パンも不味くなる。  さっぱり分からない。  分からんぞ、若者よ。  たかが髭、少年特有の奇行と思っておこう。  思春期と言うには、少しとうが立っているけど、まあ私からすれば少年だよね。  デザイン部に来るくらいなのだから、少々素っ頓狂な気質を隠し持っていたとしても不思議は無い。  さらに次の日、加嶋くんの鼻は赤かった。  さすがにマジマジと見て、何事かと確認してしまう。  赤いスポンジの球を、どうやってか鼻につけているらしい。 「切り込みがあって、鼻を挟んでるんです」 「尋ねてません」  一体、彼は何がしたいのか。  実害は――ある。  寛容さを身に着けた大人にも、侵されたくない領域はあって当たり前だ。  赤鼻と髭のローテーションを一週間続けた後、加嶋くんは遂に禁断の一線を越えてきた。  より近くの机へ移動した彼へ、自分の席へ戻れと叱る。 「温かいと食べられなくなるの。嘘じゃない。近寄らないでちょうだい」 「嘘だとは思ってません。お茶すら、ヌルいと飲まないですもんね」 「そうよ、胸がむかついてしまって……。分かったら戻って」 「イヤです」  あまりのキッパリとした物言いに、二の句を継げなかった。  至って真剣な面持ちで髭を外した彼は、私の机にある写真立てを指差す。 「ご家族の写真ですよね。珍しいなって思ったんです」 「え、ええ」 「ご両親を亡くされたんだとか。ここに来てすぐ、相沢先輩が教えてくれました」 「もう昔の話よ」 「そう、昔じゃないですか。十四年も前だとは知らなかった」  火事で両親と弟を亡くしてから、私は冷たい物しか食べられなくなった。  相沢さんには教えたので、加嶋くんもそう聞いたはずだ。  知り合って日の浅い彼にすれば、本人へ質問するにはセンシティブ過ぎる話題だろう。  三か月間、彼はそのことに触れないようにして過ごす。  しかし、死別したのが昔と聞いて、思うところがあったらしい。 「席を近づけても、パンが温まったりしません」 「いや、そんなことは――」 「しません。主任がイヤがってるのは、誰かと一緒に食べることでしょ?」  親しい誰かと食事をする。席を並べて食べ、お互いの顔を見て笑い合う。  それが出来なくなった。  そんなことは、彼に指摘されずとも知っている。 「温かい物を食べろとも、ご家族を忘れろとも言いません。そんな権利はボクに無い」 「そう。あなたは少しプライバシーに踏み込み過ぎ――」 「ボクと一緒に食べてください」 「なんで、そんなことにチャレンジしなくちゃいけないのよ」 「誰かと食べる幸せまで、忘れちゃダメです」  入社直後、事情を知った同僚からは腫れ物に触るように扱われ、気づけば十年が経っていた。  結婚も他人事、誰に気兼ねすることもない独り暮らしだ。  少し怠惰な私生活を叱る誰かも、心に踏み入ってくる者もいなかった。  彼が現れるまでは。 「このままでいいと、思うんですか?」  そんなこと――。  即答するのは、とてもじゃないが無理だった。  私にどう思われるのか、自分の考えが本当に適切なのか、加嶋くんは自省したりはしないのだろう。  ただ正しいと信じることを、直球で投げるだけ。  馬鹿な男だ、と鼻で笑うのは簡単なのだけれど、それを許さない自分もいた。  私は立派な大人なのだと、胸を張って言えるのか?  彼は急かすようなことはせず、よく考えてみてほしいと言って、その日のランチは終了する。  食べ残した菓子パンは、結局ゴミ箱行きになった。
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