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小暑
こんなことってあり得るのか……。
短い睡眠から目覚めて地上に出た僕は、愕然としていた。人間が大好きな言葉である「乱舞」。僕の仲間が無数に飛び交う様子を表す言葉。僕も少なからずその光景を期待していた。自分もそのうちのひとりになれることを。そして人間に大いなる感動を与えることを。
だけど何というありさまだ。いざ地上に出てみるも仲間の姿を全く感じることができない。つまり、僕の仲間が放つ光が全く見えないということだ。それどころかあたりは闇に包まれ、人間の気配も感じられない。
僕は短い睡眠の期間に移る前のことを思い出した。
物心ついた時から、人間の存在が身近にあった。
僕たちはとても快適な場所にいた。定期的に主食であるカワニナが与えられ、天敵などいるはずもない空間。そこで僕は仲間とともに悠々自適な生活を送っていた。
聞くところによると、人間の多くは僕たちのような昆虫を好きでないという。その理由はさまざまで、容姿が気持ち悪いとか、動きが気持ち悪いとか、得体が知れないから気持ち悪いとか、まあ「気持ち悪い」の一言で片づけられる。
だけど僕たちだけは違う。僕たちのアピールポイントは、発光しながら飛べること。ほかのどんな昆虫も真似ができないから、僕たちだけは人間に好かれている。平安時代というずっとずっと昔に書かれたというエッセイにも「夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる」という文章があるほどだ。夏は夜が素晴らしくて月が輝いている時もいいけど、月の出ていない夜は僕たちが多く飛び交うのが素晴らしい。つまり、遥か昔から僕たちは人間に親しまれ、また人間の目を楽しませてきたということだ。
そしてそれは、カワニナを必死に食べる僕の姿を見つめる人間たちのまなざしからも、はっきりと感じ取っていた。人間からすると、僕は十分「気持ち悪い」姿をしているというのに。
そんな快適な環境にいた僕たちだった。だけど短い睡眠を取る直前、いきなり経験したことのない厳しい世界へと放り出された。「放流」という形で。
幸い、新しい環境に慣れるのにそう時間はかからなかった。僕たちがこれまで住んでいた場所と大差はなかったからだ。カワニナがいて、穏やかで清潔な環境。
そこで僕たちはしばらくの時を過ごしたあと、土に潜って短い睡眠に入った。
僕だってゲンジボタルとして生まれるのは初めてだ。だから「乱舞」がどれほど美しいものかを知らない。そして何より僕自身が、仲間と織りなすその光景を心待ちにしていたというのに。
寝坊をしてしまったのだろうか。まだ飛ぶことに慣れず、ぎこちない動きで僕は羽を必死に動かす。ちゃんとお尻が光っているかどうかも心配になってきた。まだ人間に飼われていた頃、そして「放流」されて川で過ごしていた頃には感じたこともなかった孤独。ずっと仲間が僕の傍にいた。今、仲間たちはどこにいるのだ。僕が眠りこけている間にすっかり目覚めて「乱舞」をしていたのか……。もうみんな結婚相手を見つけてデートを楽しんでいるんだろうな……。
そこでハッと気がついた。僕が短い睡眠から目覚めた理由に。いや、それ以前に僕がゲンジボタルとして生まれてきた理由に。全ては次の世代に引き継ぐためだ。人間を喜ばせるためではない。
僕は、再び宙に舞った。僕は立派なゲンジボタルだ。きっとお尻は輝いている。
だけど仲間がいないことがこれほどまでに心細いかを、僕は知らなかった。これまで僕は、仲間がいたことでやってこられた。きっと空を飛べるようになってからも、僕たちは協力して彼女の見つけ方といった情報共有をもしていくのだろうと思っていた。それなのに、今僕はひとりぼっちだ。
相変わらず辺りは闇に包まれたまま、月も出ていない。
どれくらい飛んでいただろう。適度な湿気が気持ちいい。降りそうで降らない天候。雨が降ってしまうと羽が重くなって飛べなくなってしまうけど、今のような時はとても調子がいい。このまま僕ひとりでもいいと思えてしまうくらい。
いつの間にか心細さはなくなり、僕はゲンジボタルであることを楽しめるようになっていた。もう躍起になってカワニナを食べなくてもいい自由さ。のどが乾いたら水を飲めばいい。僕は今や水だけで生きていける最強の昆虫だ。
その時。草むらにほのかなあかりを感じた。やわらかくて優しそうなあかり。
僕はぼうっと光っている草むらを目指して、ゆるゆると飛んだ。近くまで寄ってみると、お尻を光らせているとてもきれいな女の子がいた。僕は少しずつ近づく。そして、勇気を出して声をかけてみた。
「ねえ、あまりにもきれいだったから近づいてみたんだけど……」
すると女の子はほっとしたように息を吐いた。
「わたし、もう誰とも会えないのかと思ってた」
「もしかして、君も寝坊したの?」
「土の中がとても気持ちよかったの。それで、目覚めてこの姿になってみたら、もう誰もいなかった」
思わず笑みがこぼれた。僕も同じだったから。僕も土の中が気持ちよすぎて寝坊したんだ。
「僕も同じ。でもそれって運命だと思わない?」
「運命?」
「うん。だってそのおかげで僕は君を見つけられた」
僕はさらに彼女に近づく。そして全身に力を込めて強い光を二度ほど発した。これで断られるならそれまでだ。
すると、彼女の輝きが増す。僕にはそれが彼女のOKサインだということが本能的にわかった。それにしても美しい輝きだ。こんな僕でも受け入れてくれたのだという喜びがあふれる。
「いいの? 本当に僕でいいの?」
「いいも何も、あなたしかいないでしょ? お寝坊仲間さんは」
くすくすと彼女が笑った。僕はおずおずと彼女に身体を重ねる。
「でも、君がこんなにもきれいだなんて思ってもみなかった」
「あら。あなただって十分かっこいいと思うわよ」
「本当? 僕のお尻、かっこよく光ってた?」
「うん。遠くからでもよくわかったもの」
僕は安堵のため息をついた。
「ねえ、あなた知ってる? 大昔のエッセイ」
「僕だってそれくらい知ってるよ。僕たちが『乱舞』しているのがとても素晴らしいっていうことでしょ?」
彼女はふふふと笑った。
「その続きよ。続きにはね、『また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし』って書いてあるの。つまり今のわたしたちみたいに、ふたりきりでいることも素晴らしいっていうことなの」
「それは知らなかったな……」
そう答えながらも、僕はもうそんなことはどうでもよくなっていた。彼女と身体を重ねていること、それ以上に尊いことなどあるはずがない。
夢中で愛し合っていると、彼女が恥じらいながら言った。
「明るくなってきちゃった。ちょっと恥ずかしいよ……」
一生懸命になっていた僕は、周りが明るくなっていたことに気づかなかった。危ない。明るくなるということは、外敵にも見つかりやすいということだ。彼女が襲われることも避けなければいけないけど、僕も志半ばで倒れるわけにはいかない。
「じゃあ、どこか目立たないところに移動しよう。僕はまだまだ君と一緒にいたい」
「わたしも。あなたと一緒にいる」
よかった。彼女も僕と同じ気持ちのようだ。明るさを帯び始めた空の下、愛し足りない僕たちは安堵できる場所を求めてつながったまま移動する。彼女から離れないように、彼女を離さないように細心の注意を払って。
やがて僕たちは草葉の蔭に身を落ち着けた。ふうと息をつく。
「ここなら大丈夫だよ」
「そうね」
安全地帯に身をひそめ、僕たちはいっそう強く優しく抱き合った。
<了>
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