大暑

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大暑

 ある日突然ひらめいた。暗い土の中から出て、大空へ飛び立つんだって。そして今日こそがその時なんだって――。  気がついたらこの暗い土の中にいた。どうしてこんなところにいるのかわからない。わからないままあたしは寂しさから逃れるために動き回っていた。そして時々硬いものにぶつかって、そこから甘いものを吸っていた。そうすると豊かな気分になれるし、それが正しいということだけはわかっていたから。  何度もここから出たいと思った。だけど、まだその時じゃないって誰かに教わるわけじゃないのに、あたし自身しっかりとわかっていた。だったらいつ?それもその時になるとちゃんとわかることを、あたしはわかっていた。  そして今日。あたしは突き動かされるように土をかきわけて進む。手足を存分に動かして。進むべき方向もあたしはちゃんと知っている。その先に素晴らしい世界が待っていることも。  突然、かきわけた土の感触がなくなり、あたしの手は空を切った。文字通り土じゃなくて空。あたしたちにとっては、土の上はすぐに空だ。  きょろきょろとあたりを見回す。確かに暗いけど、今までいたところのように閉塞感を伴う暗さではない。あたしたちとは違った種の生物がたくさんいる気配。怖い気持ちもあるけど、今のあたしには期待に満ちた世界だ。  ああ、今すぐ飛び立ちたい。だけど我慢。あたしはまだ殻に覆われている。  もぞもぞと土の上を歩く。今までいたところとは違って少し歩きにくい。だけどこれも立派なレディになるための訓練だと思ったら、あたしは頑張れる。  あっ、何か大きくて硬いものにぶつかった。痛いけど、とても懐かしい気分がする。そうだ、あたしが生まれたところもこんな感じだった。  あたしを生んでくれたお母さん。あたしを生んでくれる時、「どうか元気で育ちますように」って願ってくれたんだ。おかげであたしはもうすぐお母さんと同じ姿になれる。  手足を使って一生懸命登る。この動きに慣れないと、これから大変なんだっけ? 全ては立派なレディになってかっこいい旦那様を見つけるため。頑張らなくちゃ。  あたしたちが羽化する姿はとても美しいと評判なので、人間たちには人気がある。特に子どもたちの学習のために一役買っていると思うと誇らしい。だけど一方であたしたちを食べる種には標的になりやすい。だからあまり高く登らないように目立たないように、場所を選ばなければならない。あたしからしたら、この美しい姿をみんなに見せびらかしたいというのに。  このあたりだろうか。あたしが最もあたしらしい美しさを誇れるところ。遥か遠い宇宙から届く月の光を浴びながら、あたしは静かにその時を待つ。  背中が開く。あたしはそこから出ようと頭を外に向かって動かした。続けてうまい具合に手を出すことができた。ほっとしたのもつかの間、次は前の方の足を出す。ちょっとここからが体力勝負。腹筋だけで身体を支えなければならない。うまく前の足も出すことができたけど、身体中がぷるぷると苦しい。まだお尻が殻の中に残っているけど、少し休まなきゃ。  だけど、誰に教わったわけでもないのに、どうしてあたしはやり方を知っているのだろう。お母さんにもお父さんにも会ったことはないというのに。そして、あたしはちゃんと次の世代にも伝えていかなきゃいけないということも知っている。次の世代にバトンタッチをするために、あたしは今を生き延びてかっこいい旦那様を見つけるという大仕事を担っている。お母さんがそうやってきたと思うと、あたしにもできるような気がした。  少し体力が回復したのを感じた。まだ腹筋はぷるぷるしているけど、あたしは最後の力を込めてお尻と残った後ろの足を出す。やった、うまくいった。あとは羽が開くのをひたすら待つだけ。まだ少し時間がかかるので、あたしは休憩がてらあたりを見渡した。  すぐ傍に視線を感じてあたしはぎょっとした。もしかして、あたしはかっこいい旦那様を見つけられないまま食べられちゃうの?  まだ身体を動かすことのできないあたしはおろおろする。だけど不思議と怖い感じはなかった。そればかりか、むしろ仲間を優しく見つめるような感情さえ伝わってくるようだ。  これが、人間っていうやつ? 今あたし、人間の子どもの教育の一端を担っているの? そんな気がしてあたしはいっそう誇らしい気分になる。どう? 今あたしが一番美しい姿なのよ。しっかり見ておきなさい。  あたりが明るくなってきて、どうやら人間たちも飽きてきたらしい。あたしは再びひとりになった。そろそろ羽がしっかりしてきて模様も鮮明になってくる頃だ。あたしのお母さんはどんな人か知らないけど、きっと美人だったと思う。だからあたしもお母さんそっくりの美人になっているはずだ。  それなのに、人間たちはあたしたちを気持ち悪いという。あたしはレディだから声が出ないけど、メンズが歌う歌をうるさいともいう。  あたしたちの仲間にもいろいろいて、その中でもカナカナと歌う仲間は許されるらしい。はかない夏の夕べにぴったりなのだそうだけど、あの人たちだってあたしたちと同様に昼間も歌っている。主に山の方にいるあの人たちと人間たちにより近いあたしたちとの、運命の分かれ道っていうやつ? ちょっと理不尽な気もするけど、気持ち悪がられるおかげで人間が敵になりにくいのはありがたい。  ふと、足のあたりに高揚感を覚える。何、この初めて感じる気持ち……? シャンシャンシャンシャン……。そうだ、あたしたちは足のあたりに耳があって、メンズの歌を聴くことができるんだった。  まだしっかりと明るくなっていないのに、もう起きている人がいる。もしかしてあたしのことを誘っているの?  あたしはしっかりと乾いた羽で大空へ飛び立った。  初めての大空飛行は難しいことばかりだった。まっすぐにしか飛べないあたしは時々何かにぶつかったりした。メンズの歌を頼りにするものの、まだ方向感覚がつかめないのでその方向に行けない。だけど、そのうち飛ぶことにも慣れてきて、あたしが好きな甘いものが出る木を嗅ぎ分けて止まれるようにもなってきた。  こんな生活を初めてどれほどの時間が経ったのだろう。あたしはいくつもの夜と昼とを繰り返してきた気がする。あんなに人間たちがうるさいというメンズの歌。だからあたしにもかっこいい旦那様がすぐに見つかると思っていた。だけど飛べども飛べども見つからない。  このまま旦那様が見つからずにあたしは力尽きてしまうの? そうおぼろげに思っていた時だった。これまでに感じたことのない大きく強い歌声が聴こえた。あたしの旦那様はすぐ近くにいる。  もう暗い土の中から出てきてからどれくらい経ったのかわからない。だからあたしは相当年を取っていると思う。こんなあたしでも受け入れてくれるのか……。わからないけど、あたしはその方向へ向かって必死に羽を動かす。だけど飛ぶのにも体力が必要で、もう限界ぎりぎりななあたしは手近なところに止まるしかなかった。さっきまで頼りにしていたメンズの歌も聴こえなくなってしまった。  ごめんね、お母さん。あたし、次の世代に引き継げないまま力尽きてしまいそう……。自分がたまらなくちっぽけに思えて、消えてしまいたくなる。  その時だった。ふと肩に温かな感触を覚えた。あたしの身体に触れる手の感触は、やがて控えめだけど強くあたしの身体を覆ってくる。 ――やっと見つけた。  いつもメンズが歌っている歌ではなく、あたしだけにささやかれる言葉。 ――違うよ。あたしが見つけたの。  声を出すことのできないあたしは全身で彼の言葉に応える。 ――そっか。僕は僕で、君を探してたんだけどな。それで、僕と結婚してくれないかな? ――だけどあたし、もうおばあちゃんだよ? ――そんなの僕には関係ないよ。僕は君が好きなんだ。  もうそこから言葉は不要だった。あたしたちは全力で抱き合った。あたしは全ての力を振り絞って彼を受け入れる。彼もあたしのことを全力で愛してくれた。……ちなみに補足すると、あたしたちの交尾は公序良俗に反することがない。なぜなら彼は羽でしっかりと結合部分を隠してくれるからだ。ほかの種のように、レディの上にメンズが乗るなどという下品なものではない。  だけど夢のような時間は長くは続かない。悲しいことにあたしたちの関係は、交尾が終わるとさっぱりとしたものだ。あたしのことを全力で愛してくれた彼は、行為が終わるとさっさと飛び立っていった。だけどあたしのことを真剣に愛してくれたことはしっかりと受け止めたから、後悔はない。それにあたしにはこのあとも大仕事が待っている。気持ちを切り替えなきゃ。  あたしはあたりを見回す。よし、ここなら大丈夫。あたしが育ってきた環境にそっくりだから。あるいは旦那様を探して散々飛び回った挙句、あたしはあたしが生まれた場所に戻ってきたのかもしれない。だけど、そんなことは大して重要ではない。大切なのは、あたしの子どもたちが外敵に襲われることなく元気に育って、またずっとずっと先にあたしのように幸せな結婚をすること。そして男の子が生まれたならば、あたしのようなかわいい奥さんをできるだけたくさん見つけること。  あたしは最後の力を振り絞って木の幹に卵を産みつける。「どうか元気で育ちますように」と願いながら。  そして最後の卵を産みつけた時、あたしはもう踏ん張る力もなくなって、この姿になる前に慣れ親しんでいた土の上に落下した。  だけど不思議と悲しいとか寂しいという気持ちはなく、むしろ嬉しかった。なぜなら、地に落ちたあたしの身体はやがて土に還り、子どもたちを育てる糧となることを、あたしはちゃんと知っているから。 <了>
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