芒種

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芒種

 私はエノキの老木。はるか昔にこの地に植えられ、根を下ろしている。  かつてここは街道だった。一里塚として均等に植えられた私たちは、旅人の目印となったものだ。  私はさまざまな時代のさまざまな人々を見つめてきた。ちょんまげを結った侍、和装から洋装へ衣を替えた人々、袴に身を包んだ女学生など。  人々がもんぺや防空頭巾に身を包んでいた頃は大変苦しい時代だった。このあたりはすっかり焼け野原になってしまい、私たちも大きな被害を受けた。仲間はみな焼けてしまい、残ったのは私だけだった。  傷ついた人々は、私をよりどころにして立ち直った。いや、私もそうだった。私も人々の復興を目の当たりにして、ずいぶんと元気をもらったものだ。  やがてまた長い年月が過ぎ、人々の装いはずいぶんと鮮やかになっていった。ミニスカートに厚底ブーツのおなごたちには私も年甲斐もなく楽しませてもらったが、褐色の肌に目の縁を白く塗ったおなごたちの登場にはぎょっとさせられたものだ。  今、この地は子どもたちが遊ぶ公園として整備されている。ありがたいことに私は、この公園のシンボルツリーとして大切にしてもらっている。  私はここで子どもたちを見守ることが何よりも楽しみだった。初めて目にした時にはよちよち歩きであった子どもが、走る姿を見た時の嬉しさといったら……。その子が投げたボールが幹に当たった時は痛かった。だが、消え入りそうな小さな声で「ごめんなさい」と謝ってくれたので、何と優しく育ったのだろうと感激した。私はさわさわと葉を揺することで返答した。当たり前だが通じることはなかった。  子どもたちだけではない。私は多くの虫や鳥のよりどころとなった。オオムラサキやゴマダラチョウの幼虫が葉を食べ、ヒヨドリやキジバトが実を取っていく。私の葉はまさに虫食いとなるが、かわいい蝶々のためだから一向にかまわない。また実を鳥に食べられることで、子孫を残すことにもつながる。  このように穏やかに暮らしていた私だったが、ある日病気にかかってしまった。といっても決して珍しいことではない。私のような木がよくかかる、うどんこ病という病気だ。ウドンコカビというカビの一種によるものだ。  これまで予防のために定期的に薬剤を散布してもらっていたのに今回かかってしまったのは、やはり私が老木だからだろうか。  最初は一枚の葉だけだったのが、今や数枚に広がってしまった。葉が白い粉をふいたようになってしまい、何とも見苦しい。人間への影響はないはずだからその点だけが安心だが、このままでは全ての葉が真っ白くなって、やがて私の寿命は尽きる。  私もずいぶん長く生きてきた。少し疲れてしまったようだ。それに、自分で自分の身を守る術を持たない私には、どのみちどうすることもできない。このまま潔く生を閉じるとしよう。  そう思った時、ウドンコカビにやられた葉の上でもぞもぞと動く気配を感じた。その気配は次第に増え、今やくすぐったく感じるほどだ。 ――おじさん、大丈夫? ――これくらいだったら、僕たちがあっという間に退治するよ。  葉の上でウドンコカビをむしゃむしゃと食べている黄色くて小さな虫たち。彼らはキイロテントウ。白い胸部に黄色い前翅を持つ、とてもかわいらしいテントウムシだ。大きな黒い眼と、白い胸部に入っている黒いワンポイントが何とも愛らしい。テントウムシの代表格であるナナホシテントウが体長約一センチなのに対して、彼らはその半分ほどしかない。そんな小さな身体で頼もしい仕事をしてくれるのだ。  私は葉を揺することで感謝の意を伝える。すると彼らは口々に答えた。 ――ひゃあ、落ちる~。 ――スリル満点! もっと揺らして。  人間の子どもには伝わらなかったが、彼らにはうまく伝えることができたようだ。どう反応を返すべきか躊躇した結果、私はさっきよりも軽く葉を揺すった。 ――気持ちいい。  間をおかずに返ってきた反応に、私は嬉しくなる。  そういえば、仲間たちが焼けてしまってから、どんな時もひとりきりでいた私だ。誰かとコミュニケーションを交わすということをすっかり忘れていた。エノキの老木である私と、キイロテントウたち。種は違えど、私たちは今、確かに心と心を通わせている。  突然、私の中に熱いものが流れるのを意識した。根から水分を吸い上げ、幹を伝って枝に行き渡らせ、葉の隅々まで送る。今まさにキイロテントウたちが必死に働く葉の隅々まで。  私は生きている。そして、まだ生きたいと願う私がいる。私はまだまだ生きて、子どもたちが育つのを見守っていたい。世の中がどれほど厳しいものになろうとも、数々の時代を生きてきた私には見守る義務があるとさえ感じる。これははるか昔、まだ若木だった頃に感じていたような生命の叫びだった。 ――おじさん。やっと元気になってくれた。 ――よかった。カビ退治も、もうすぐだからね。  私の全身に力がみなぎるのを、キイロテントウたちも察したようだ。口々に私を励ましてくれる。  遅ればせながら、私は気がついた。すっかり自分のことをおじいさんだと思っていたが、彼らがしきりに私のことをおじさんと呼んでいたことに。どうやら私には、まだ寿命は残されているようだ。  君たちに病気を治してもらったから、私はもっともっと長生きするよ。  感謝の意を込めて、私は葉を揺する。すると、私の葉からウドンコカビがすっかりいなくなったのか、キイロテントウたちは誇らしそうだ。 ――こんなの、病気のうちに入んないよ。 ――そうそう。おじさんはみんなの憩いの場になってるんだから、もっと頑張らなきゃ。 ――でも、またヤツらが来たら僕たちが退治しにくるからね。  口々に言っては飛び立っていく。すっかり元気になった私は葉を揺するが、もう彼らはいなくなってしまったのか反応はない。だが私は満足だった。彼らに与えてもらった命を、私は全身で味わっているから。
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