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第1話 春の盛りに「哲学の道」
忙しさというものは、五感を鈍くするから、いやだな、と思う。
1年前のことをふと思い出し、わたしは読んでいた本から顔を上げた。窓から差し込む春の日差しが部屋の中を白く光らせ、わたしの体すらも、その光の中に沈ませようとしている。四角い窓からは今にも透けてしまいそうなほど儚げな水色の空が広がり、悠々と泳ぐ魚のように、白い雲がたゆたう。読みかけの本にしおりを挟み、うんと伸びをしてから腰を浮かせた。体に取り巻くまどろみを振り払い、テーブルの上にあるカメラをつかんで首に下げる。先についている白いきつねのストラップが、喜ぶように左右に揺れる。
ああ、もう、行かなくては。
外はあたたかな陽気で満ちていた。春は、パステルカラー。道端に咲く花も、歩く人々の服装も、冬の重たさを取っ払ったように軽くって、心がポップに飛び跳ねる。
大学に入学したばかりの頃。引っ越しや慣れないひとり暮らしにあくせくしていたわたしは、光のやわらかさにも、透けるような空の色にも、気づくことができなかった。忙しさは五感を鈍くする。鮮やかな花にも気づかずに、小鳥のさえずりすら聞こえずに、花の香りすら届くことなく、食事はいつもコンビニで済ませて、感じるのは疲れだけ。そんな廃れた生活をしていたから、だいすきなカメラを持ち出す気力もなく、モノクロの景色ばかり見ていた気がする。
一乗寺から琵琶湖疏水分線に沿って進んでいくと、どんどん人が増えていった。みんな、今しか見られない景色を見るためにやってきたのだ。花のような笑みをたたえて、大切な人と手を繋いで、短い盛りを目に焼きつけている。
哲学の道。そう名づけられたこの小道には、薄桃色の桜並木が続いていた。雪のようにはらりはらりと風に舞い散り、わたしの視界をまだら模様に染め上げる。去年は見ることのできなかった景色。見ようとすら思わなかった景色。桃色の雲の上に浮かんでいるように、心がどんどん上昇する。一歩進むたび、春の海に沈んでいく。
大学に入学してからの1年、いろいろなことがあった。茂庵で新緑の美しさを知り、川床料理のおいしさを味わい、紅葉の鮮やかさ、雪の儚さを心に刻んだ。京都に来て、まだ1年。だけど、今まで生きてきた18年よりはるかに濃く、充実した時間を過ごした。
桜並木を歩いていくと、ひとりの男の人が立っていた。茶色がかった髪を春風になびかせて、眼鏡越しに桃色の桜を見上げている。慈しむように、愛するように、恋い焦がれた桜を享受している。
あなたの瞳がわたしを捉える。桜を眺める時と同じように、やわらかな表情でわたしを迎える。わたしは静かに微笑んで、あなたの元へと歩いていく。
――春は、始まりの季節。
これから先、見たことのない景色がわたしを待っている。春の桜が、夏の緑が、秋のもみじが、冬の雪が、早くおいでと急かしている。明日の瞳に映るのは何。明後日生まれる想いはなぁに。わたしたちはまだ知らない。わたしたちにはまだ見えない。
さあ、これからふたりでどこへ行こう。
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