一話 雨の夜

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一話 雨の夜

「本当に一人でやっていけるの?」 『母さん。もう引っ越しする日も決まってるだろ』 「でも…。」 「柚希が決めたことだ。今更口を出すな」 「そんなこと言っても母親なんだから心配するでしょう!」 「一度は納得しただろう」 「それはあなたが柚希を追い出そうと…」 『ここを出るまであと2週間ほどだから。言い合いしないで』 「柚希…」 『コンビニ行ってくる』 「柚希!」 『兄ちゃん』 「雨降ってるから車出すよ」 『いいよ。歩いて行ける』 「…柚希。誰もお前に家を出てほしいなんて…」 『分かってるよ。俺は自分の意志で出ていくんだって何度も言っただろ』 兄ちゃんは昔から何でもできた。 勉強も、運動も。 絵もうまいし今働いている会社だって名の知れた大手だ。 俺は小さな時からそんな兄ちゃんが自慢だったし、羨ましいというよりは誇りに思ってた。 それは今でも変わらない。 「家出たら…もうピアノ弾けないぞ」 『最初からそんなに好きじゃないから』 「お前の本当にやりたいことってなんだ?」 『…玄関先でする話じゃないだろ。じゃ行ってきます』 小さな時、隣りに住んでる幼馴染が弾いていたピアノの音に魅了されて、初めて自分から習ってみたいと思ったピアノ。 何をしても兄ちゃんに敵わなかった俺が、親に唯一認められたものがそれだったかもしれない。 ピアノの音は不思議だった。 いつも少しだけ空いていた心の隙間を埋めてくれるような存在だった。 嬉しい時も悲しい時もピアノを弾きたくなって、自分の感情と共に鍵盤をたたけば、不思議と幸せな気持ちは増えるのに嫌なことはどうでもよくなった。 でもそのうち、ピアノの音以外の「音」を敏感に感じるようにもなった。 将来を心配する声。 兄さんのように社交的で、真面目で、勤勉じゃない俺に対する周りの評価。 ”やりたいようにやれ” そう言う両親の言葉に隠された諦めの気持ち。 耳を塞いでも痛いほど感じるその音のせいで、徐々にピアノの音が聞こえなくなっていった。 いつしかピアノは俺の心の隙間を埋めてくれなくなった。 静かなところへ行きたい。 耳を塞がずに色んな音を聞ける場所。 俺を必要としてくれる人がいる場所。 ”ニャー…” 突然聞こえた声に、雨のせいで水がしみ込んでるスニーカーの動きを止めた。 地面を叩きつけるような雨の音に紛れて微かに聞こえた鳴き声。 耳元で傘に当たって跳ね返る雨粒の音が邪魔をするけど、その声は間違いなく自分の耳に届いている。 辺りをキョロキョロするけど、裏通りの暗い道じゃどこにいるのかすら確認できない。 『…どこ?』 間違いなく猫の鳴き声だった。 もう一度耳を澄ませるけど、聞こえるのは降りしきる雨の音だけ。 『どこだよ』 助けて欲しいから鳴いたんじゃないのか。 『おいどこ?』 諦めるなよ。 見つけてやるから 助けてやるから。 お前の声は俺にちゃんとに届いてるから。 『もう一度鳴いてくれよ!』 「ニャー」 側溝の隙間から顔を出したそいつとやっと目を合わせることができた。 『は…いた』 側溝では雨は凌げなかったのか。 いや、何処かに移動する途中だったのか。 その身体は水が滴るほど濡れていて、ガタガタと震えている。 『…わり。拭いてやれるもの持ってない』 警戒して逃げられないようにゆっくり近付いたけど、逃げる気配なんかなくて、そいつはまるで俺が側に来るのを待っているようだった。 片手で簡単に掴めるほど小さなその身体を持ち上げると、泥だらけの足が空を掻く。 とりあえず服の袖で身体を拭いてやりたくもなったけど、反対の手に持っている傘を下ろすとずぶ濡れになることは目に見えている。 仕方なくそいつを胸元で抱えて、せめて寒くないようにと腕に力を込めた。 さて…どうするか。 きっとさっきの話の延長で、まだ言い合いしてんだろうな。 このタイミングで泥だらけの猫を連れて帰ってきたなんて言えない。 「ミー…」 『ちょっと待てよ。今考えてるから』 「ミー…ミー」 『…心配すんな、捨てて帰ったりしない』 どう考えても面倒くさい状況だけど、不思議と心は落ち着いていた。 『いいか。絶対鳴くなよ』 「……」 『そうだ。いい子にしたら飯と風呂入れてやるから』 かつて自分の家のドアを開けるのにこんなに緊張したことはあっただろうか。 ゆっくり開けたドアの先に誰もいないことを確認して、自分の部屋に向かって階段を駆け上がった。 『…賢いじゃん』 パーカーの隙間から顔を出したそいつは得意気な顔をしているようにも見える。 早く拭いてやりたいけど、自分のパーカーも中に着ているシャツも見事に泥だらけになっている。 俺を見上げる丸い目に、思わず重いため息が出た。 …まぁお前からだよな。 ごしごしと水気を取るように拭いてやると、薄黄色のタオルがあっという間に真っ黒になった。 『とりあえず今はこれで我慢して。みんな寝たら風呂な』 「ニャー」 『お前俺の言うこと分かんの?』 猫相手に何言ってんだ。 ふと我に返ると今の状況に笑いそうになる。 面倒なことは苦手で、家の中で問題が起きるなんて一番嫌なことなのに。 気付かれたら面倒なことにしかならない状況に自ら陥ってるんだから。 「ミー」 『し。隣りの部屋に兄さんいるから』 「……」 『いい子だな』 こんな小さいのに缶詰なんて食べれるのかって買ってから少し不安になったけど、そんな心配なんの意味もなかったかのようにそいつはペロッと平らげた。 その後、みんなが寝静まった時間を見計らって一緒に風呂に入って洗ってやると、茶色なのかグレーなのかよく分からなかった毛色は、シャワーと石鹸によって真っ白だったことが分かった。 寒さと空腹で濁った瞳が綺麗なミント色だったことも。 雪みたい。ミルクみたい。そんな風に思えれば可愛い名前もつけてやれたんだけど。 『砂糖みてぇ』 見れば見るほどそう思った。 『シュガー…』 「……」 『何だよ、気に入らないの』 「……」 『あ、鳴いていいぞ』 「ニャー」 『じゃぁ決まりな』 シュガーは不思議な猫だった。 まるで俺の言葉を理解しているようだったし、鳴き声は話しかけているみたいだった。 初めてのように感じる誰かが布団にいる温もり。 両親と一緒の布団で寝ていた記憶は思い出す限りない。 物心ついた頃には、自分の部屋で一人で寝ていたような気がする。 寂しいなんて…その時は思っていたのかもしれないな。 余計なことまで思い出して、その日はなんだかよく眠れなかった。 「ミー…」 『悪い。ずっと隠して置いてはおけないから』 次の日学校へ行く前に、近くの空き家に使われていない犬小屋があることを思い出して、その場所までシュガーを連れて行った。 朝試しに猫を飼いたいなんて話してみたけど、予想通りまともに話を聞いてくれる様子もなかったし。 幼馴染みに頼もうかなんて考えも一瞬頭を過ったけど、おじさんが猫アレルギーだった気がする。 『寒くないように服いれてやったから。この中なら雨にも濡れない』 「ミー」 『大丈夫。俺はお前を捨てたりしない。あと少しだけ待って』 卒業式が終わってから住む予定にしてるアパートは築何十年も経っているようなおんぼろアパートだ。 こんな小さな猫一匹飼っててもうるさく言われないだろう。 『卒業して一人暮らしを始めたら、一緒に住もうな。それまでお互いに我慢』 「ニャー」 ここで俺はシュガーと小さな約束を交わした。 何でこいつを拾ったんだろう。 昨日の夜からずっとそんなことを考えていたけど、単純に自分に似ていたからなのかもしれない。 助けて欲しいと小さく声を上げていたって、皆んなにはまるで聞こえていない。 俺がその声を聞いてくれる人をずっと求めていたように、シュガーお前も自分の声が届く相手をずっとあそこで待っていたんじゃないのか。 俺たちは似た物同士だから、きっと上手くいくよな。 俺たちこれからずっと一緒にいような。
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