三話 柚希との別れ

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三話 柚希との別れ

 その日は、本当に突然やってきた。 「乃々香もう出るの?」 「うん、そろそろ出るよ」 「じゃぁこれ柚希君に持って行って」 「なに?」 「柚希くんが好きな肉じゃが。引越しで疲れてるだろうから食べさせてあげて」 「本当!ありがとう」 「気を付けてね」  柚希もう着いてるかな。 携帯を耳に当てながら玄関のドアを開けると、空がめっきりと春めいているように見えた。 この陽気なら川沿いの桜の蕾は、前見た時より開いているかもしれない。 桜が満開になったら、シュガーを連れて三人でお花見したいな…。 一度空を見上げて、繋がらなかった携帯を鞄にしまって歩き出そうとすると、隣りの家の車のエンジンがかかる音がする。 洸希君…柚希のお兄ちゃんの車が駐車場から出るのが見えて、挨拶しようと手を振りかけてから、助手席に乗ってるおばさんの違和感に気が付いた。 あれ…おばさん泣いて…。 「…っ乃々香ちゃん!」 私の目の前で車を止めて窓を開けた洸希くんの顔は真っ青だった。 「洸希くん…おばさんどうし…」 「柚希が…っ!」 「柚希…?」 混乱しているように泣きじゃくるおばさんの声で心臓が感じたことない速度で動き始める。 ただごとじゃない。一瞬で頭が警鐘を鳴らした。 「柚希が…っ…!」 「乃々香ちゃん…」 目を真っ赤にした洸希くんが私の腕を握るけど足が一歩も動いてくれない。 「いや…行かない…」 静まり返った病院の廊下に、おじさんとおばさんのすすり泣く声が響いている。 何で私はここにいるんだろう。 今日は柚希の新しい家に行って、お母さんが作ってくれた肉じゃがを食べて、シュガーと遊ぶ予定だった。 メッセージが届いてからまだ1時間ほどしかたっていないし、柚希は今頃あの空き家でシュガーと私が来るのを待ってくれているはずだ。 この部屋に柚希がいるはずがない。 「柚希、乃々香ちゃんに会いに行く途中だったんだよね…?」 洸希君の腕が私の背中を何度も往復すると、震える腕と声が伝染するように私の身体も揺らしていく。 その振動で目から溢れ出るものが、何粒も地面に落ちて染みを作った。 「待たせているんじゃないかって…きっと心配していると思う。会いに来たよって、手を…握ってやってくれないか…」 嫌だ、この目で見たくない。 夢なら早く覚めて。何でもするから。神様お願い。何かの間違いだと言って。 柚希は…死んだりしない。 私とシュガーを置いて死んだりなんか。 白いベッドに寝ている柚希はいつもと何も変わらない。 「…柚…希」 何でこんなところにいるの?今日私と約束あるでしょう? 「柚希…っ」 おばさんたち泣いてるよ。早く起きてあげてよ。 「ゆ…っ、はぁ…いや…」 どうして。 「いやだ…おいていか…ないで」 どうしてこんなことに。 「柚希…柚…」 色白の柚希の肌はいつもと変わらない。 寒がりな柚希の手はいつも冷たかった。 「起きて…起きてよ…ぉ」 ”乃々” 「柚希っ……あぁ…」  柚希は赤信号に気付かず横断歩道に飛び出した子供を庇うように、トラックに撥ねられたそうだ。 その子は柚希が突き飛ばした衝撃で怪我をしたけど、命に別状はないとのことだった。 救急車が到着したときにはもう柚希の心臓は動いていなくて、即死だっただろうとお医者さんが言っているのを聞いた。 痛い思いをしなかったことがせめてもの救いだっておばさんは泣いていた。 憔悴しきったおばさんをおじさんが支えながら、色々な手続きをしているのを病院のベンチに座ってずっと見ていたけど、皆んなが何をしているのかも、もうここが何処なのかも分からなくなりそうだった。 「乃々香!」  しばらくして病院についたお母さんとお父さんの胸で涙が枯れるほど泣いて、やっと何が起きたのか頭が理解をし始めたのかもしれない。  待ち合わせ時間をあの時間にしなければ、待ち合わせ場所をあの場所にしなければ…そんな後悔が波のように押し迫ってきて呼吸をするのが苦しい。 痛くなかったなんてなんで分かるんだろう。 最期に柚希は何を見て、何を思ったんだろう。 子供を守れて安心した?嬉しいの?自分の命を失って本当にそんな風に思うの? どんなにその返事を聞きたくても、もう柚希の声を聞ける人はいない。 どう思っているかなんて誰にも分からない。 寒くて真っ暗な闇の中で、必死に柚希の声を探したけど何も聞こえなかった。 私は柚希の声すら思い出せない。 昨日も聞いたのに。どんな声だったっけ。さっきまで覚えていたのに。 どんな顔で笑うんだっけ。怒った顔は?たまに見せてくれる可愛い笑顔は? シュガーを見つめる、あの優しい眼差しは…?  思い出したくてもう一度触れた柚希の指先は、氷のように冷たかった。    病院から帰ってすぐおぼつかない足で空き家までの道を辿りながら、何度も足を止めそうになる。 冷たい手の感触が、指から離れてくれない。いくら握りしめても少しも温まらない。 滲む視界をぼんやり見つめていると、このまま自分も、柚希の側に行きたくなった。 このまま、私は… 「ミー…ミー…」 空き家に着く手前で聞こえた小さな声に、滲んだ景色がピントが合うよにはっきりとした。 明らかに空き家の敷地の外から聞こえた声。 「シュガー…?」 「ニャー」 少し前の電柱に影が見えてほっとしたのも束の間、私に気付いたシュガーが飛び出したのと同時に後ろの暗闇からこちらへ向かう自転車が見えた。 「シュガー!だめ…っ」 細い道をスピードに乗って走っていた自転車が横を通り過ぎると、その自転車が起こした風で視界が一瞬真っ暗になる。 目を開けると電柱から飛び出したシュガーの姿がない。 「…っどこ、シュガー!?」 「ニャー」 声の先に視線を落とすと、私の靴にすり寄る小さな身体が見えた。 「び…びっくりした」 身体の力が抜けたように地面に座り込んだ私を不安そうに見上げたシュガーを抱き上げると、その顔は昨日見た時より汚れて真っ黒になっている。 「どうしてこんなに汚れてるの…?」 「ミー…」 不安そうに揺れる瞳を覗くと、潤んだ丸い目はまるで泣いているように見えた。 「…探して…たの?」 「ミー…ミー…」 「柚希を…探してるの…?」 「ニャー…」 ”シュガーは賢い猫だから” 「…っ…ふぅ…」  シュガーは何かを感じ取っているかのように、何度も小さな鳴き声をあげた。 いつもならお腹がすいていてもちゃんとあの場所で待っているのに。 真っ黒になった小さな足の裏を撫でながら、抱きしめる腕が震える。 私が思っているよりずっと、二人は深い絆で結ばれていたのかもしれない。 「ミー…」 あんなに病院で泣いたのに。 頭が痛くなって、目が重たくなって、目の前のシュガーの顔すらもうまともに見えないのに、それでも溢れてくる涙はシュガーにも地面にも何粒も落ちていった。 ”シュガー!” 思い出せなかった柚希の声が鮮明に聞こえる。 大丈夫だよ…大丈夫。私がシュガーの側にいるから。 一人にさせたりしないからね。 「シュガー…一緒に家に帰ろうね…」 「ミー…」  汚れた小さな身体を温めたタオルで綺麗に拭いてからベッドに乗せると、シュガーはそのまま身体を丸めて眠ってしまった。 「乃々香」 ゆっくりとドアを開けたお母さんが、小さな器を持ってベッドの前に座った。 「あら…寝ちゃった?」 「うん、疲れていたみたい」 「…柚希君を、一人で探していたのね」 お母さんの指がシュガーの毛を撫でると、ゴロゴロと気持ちよさそうな音がする。 「お母さんごめんね。お父さんのことがあるのに、連れて帰ってきて」 「近付かなければ大丈夫よ。それに、柚希君が大切にしていた子なら…きっと柚希くんも、心配しているはずだから」 「…っ、お母さん…」 私を抱きしめようとしてくれるお母さんの目は真っ赤に腫れていて、もしかしたら全部嘘なのかもしれないとか、夢なのかもしれない、なんてこの世界から逃げようとする思考は容赦なく現実に引き戻された。 怖くて、辛くて、寂しくて、苦しくて、何一つこの現実を受け入れたくないのに。 皮肉なことに、痛いほどそれを感じる私は今この瞬間も生きている。シュガーも、生きていくために温もりを求めている。    シュガー…私たちはこの現実を受け入れてこれからの人生を生きていかなければならないんだね。  それから2日後の最期のお別れの日は、目を閉じて眠っている柚希に、もう一度会って話がしたいと、幽霊でもいいから必ず会いにきて欲しいと、何度も何度も伝えてその姿を見送るのが精一杯だった。 さよならなんてしないと決めていた。そうしないと私の中にいる柚希が消えてしまいそうだったから。  その夜、柚希が煙になって昇っていった空をシュガーと一緒に見上げて、あの雲が柚希かもしれないねって話して、まだ涙を止めることができない私の側でシュガーも一緒に泣いた。 鳴いていたんじゃない、シュガーは紛れもなく寂しいと泣いていた。 撫でてほしいと、名前を呼んでほしいと、そう言っていた。 それが痛いほど分かって、二人でずっとずっと泣いた。  小さな時にはぐれない様につないだ手も、泣いてる私の頭を撫でる手も、私の大好きなあの後姿も、もうない。 全て空へと消えてしまった。    私は、あなたに好きだと伝えることすら出来なかった。    もう一度だけ会えたら、どんなに柚希を好きだったのか伝えたい。どんなところが好きだったのか、どんな風にあなたを見ていたのか。どんなに感謝していたか。どんなに幸せだったか。 ねぇ柚希。 あなたはいつも何を見ていたの?あなたの目に映る景色はどんなものだった? これから先の未来、どんなことを夢見ていたの? 教えてほしい。できなかった全てを、私が叶えるから…。    毎日のようにそう願って、泣いてを繰り返して過ごす私の隣りにはいつもシュガーがいてくれた。 こうやって同じ痛みを抱える私たちは、いつしか互いに必要な存在になっていったんだね。
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