00.家政婦女子は心配する

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 本棚の迷路へ向かおうとした時、目を吊り上げた牙をむき出しにした獣が彼女の前へ躍り出た。 「がうぅー!」 「どうしたの? ケルちゃ、えっ?」  ぼたり、紗代の頭上から生暖かく重量のある何かが落ちてきて、彼女の全身を粘着質な液体が汚していく。 『イイニオイ。ウマソウダ』  五メートルはあろうかというくらいの高い天井に頭がついてしまい、顔を斜めにしている頭部に角が生えた巨大な一つ目の大男が本棚を掴んで紗代を見下ろしていた。  目を見開いて硬直する紗代と視線が合うと、大男は大きな口と目を歪めて笑う。 「きゃああー!!」  悲鳴を上げた紗代は、驚きすぎてその場にへたり込んでしまった。  牙を剥いて身を屈めた獣は、今にも大男に飛び掛からんと臨戦態勢をとる。  大男が紗代へ向けて手を伸ばそうとした時、部屋いっぱいに金色の光が出現して室内は光の洪水となった。 「え?」  光が収束しきつく閉じた目蓋を開いた紗代の視界から、大男の姿は最初から居なかったかのように消え去り部屋中に漂っていた重苦しい空気は無くなっていた。  部屋の空気も生臭い匂いではなく、何時もと同じ薬草の独特の香りへ戻っている。  今のはいったい何だったのかと、紗代は目を瞬かせた。  臨戦態勢を解いた獣が紗代の傍らに座り、真っ白でフワフワの毛で覆われた尻尾をブンブンと振り出す。 「このっ、馬鹿がっ!!」  響き渡る怒号によって部屋の中の物が揺れる。  紗代もビクリッと肩を揺らし「ひっ」と悲鳴を上げた。 「部屋には入って来るなと言っただろうが!!」  怒鳴りながら本棚の影から現れたのは、目を吊り上げた銀髪の少年。  外見だけならば12、3歳くらいの年齢に見える彼は、シャツの襟元から覗いた喉ぼとけを隠して低めの声を発しなければ、括った銀髪を下ろしていれば美少女に見える中性的で綺麗な顔立ちをしていた。  切れ長の紫色の瞳は光の加減で鮮やかな赤紫色にも深い青紫色に変化し、初めて彼と顔を合わせた時の紗代は思わず見入ってしまったものだ。  そんな将来有望な美少年だが、今は瞳に怒りの光を宿して雰囲気だけで紗代を圧倒する。 「だって、だってご飯が、出来たから。昨日もずっと出てこないから」  震える唇で言葉を紡ぐ紗代の眉尻が下がっていく。 「邪魔して、ごめんなさい」  少女の大きな瞳に涙が浮かぶのを見て、少年はグッと言葉を飲み込んだ。 「いい。連絡しなかった俺が悪い」   零れ落ちる涙から視線を逸らすように、少年は横を向いた。 「飯を作って待っていてくれたんだろう? お前達と一緒に食べる。と、その前にサヨは風呂だな」  少年の言葉で首を動かして下を向いた少女、紗代は、自身の惨状を知った。 「うわぁっ?! 涎でベッタベタ?!」  先程、一つ目の大男が垂らした涎を頭からかぶっていたのだ。  涎まみれだと自覚した途端、粘着質な液体の不快感とヘドロに近い生臭さに包まれている気持ち悪さで、吐き気と全身に鳥肌が立ってきた。 「ひぃー!! 気持ち悪い~!」 「全く、お前は」  泣きべそになって慌てだす紗代から飛び散る涎をかわして、少年はブハッと吹き出した。 「ほら、行くぞサヨ」  笑いを堪えて少年は紗代へ手を差し出す。  涎で汚れてべたべたしているのに、触れていいものと戸惑い少年の顔を見る。 「粘液まみれでは転ぶぞ。歩けないのならば大人の体になって担いでやろうか。風呂も大変だろうから一緒に入って洗ってやるよ。触手の粘液まみれになった時みたいにな」  ニヤリと口角を上げて、少年は意地の悪い笑みを浮かべる。 「か、担ぐとか、一緒にとか無理だって! あの時は頭が変になっていたからっていうか、本当にアレは無理―!!」  全身を真っ赤に染めた紗代の脳裏に、無茶なお手伝いを強要された挙句食虫植物の粘液まみれになり、大人の姿になった少年に全身を洗われてしまい羞恥のあまりで倒れた時の記憶が蘇る。  子どもの姿でも色気のある美少年の彼と一緒にお風呂に入るのは想像するだけでも無理なのに、大人の姿になった彼は神々しいばかりの色気を放っていて近付くだけで体が熱くなり、動悸息切れに襲われて苦しくなるのだ。 「嫌なら掴まれ」 「ジーク君のえっち、変態」 「誰が変態だ」  ムッと眉間に皺を寄せた少年は紗代を睨む。  差し出された自分よりも少しだけ小さな手を握って、紗代は鼻水を啜りながら浴室へ向かったのだった。  半年前、異世界から聖女召喚する際、近くに居た自分はオマケとしてこの世界へ召喚された。  元の世界へ戻ることと引き換えに、紗代がジークと交わした家政婦の雇用契約期間が終わるまであと半月。  思った以上の待遇の良さと此処の居心地の良さに、この生活をもう少しだけ続けたいと、ジークともう少し一緒に居たいと思ってしまう。  繋いだ手をぎゅっと握れば肩越しに振り返ったジークが僅かに笑う。  繋いだ手に力がこもった、気がした。
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