「ほら、笑って」

1/1
前へ
/1ページ
次へ

「ほら、笑って」

「ほら、笑って」  茜はカメラのファインダーから少し目線をずらし無邪気に笑う。  写真が趣味の彼女と付き合って来月で1年。この1年間、幾度となくレンズを向けられてきたが未だに撮られ慣れず、毎回茜からは表情が固いと遠回しに注意されている。  いつもは近所で撮影をすることの多い茜が今日僕を連れて来たのは、お気に入りの場所だという代々木公園だった。  夢中で撮影を続けるうちに、いつの間にか日も暮れ始めていた。 「今日も写真撮るのに付き合ってもらってありがとうね。次の撮影が今から楽しみだな」  夕日で茜色に染まった笑顔は何時になく綺麗だった。 「僕も楽しみだよ。次はどこで撮るのかもう考えてあるの?」 「んー、内緒!それじゃあ、そろそろ帰ろうっか」と茜はおどけて言うと、僕のコートの右ポケットに手を差し入れる。  すでにコートのポケットで待機していた僕の右手と触れ合った茜の左手は、氷のよう冷え切っていて、僕の方が身震いするほどだった。 「ずっと外に居たから手冷たくなっちゃったね」  僕よりもずっと小さな手を握りながらそう言うと、「季節も場所も関係なく私の手はいつも冷たいよ」と笑った。  続けて「じゃあ心が温かいってことだね」と茜を見ると、「そうなのかな?もしかしたら血が通ってないのかも」と唇を微かに歪めた。  妖しい微笑みに目を奪われていた僕には、茜との幸せな日々の終わりがすぐそこまで迫っていることなど想像すらできなかった。  それから僕たちはタクシーで帰路についた。  はずだったのだが、どうしてこんなことになってしまったのだろう。  コンクリート壁に囲まれた、一切光の射し込まない無機質な部屋。部屋に窓はなく、錆れた鉄製の扉が一つあるだけ。  僕にはここがどこなのか、どのような建物の中なのかさえわからなかった。  茜と二人で帰りのタクシーに乗ったところまでは覚えているが、その後の記憶がない。 「・・・・・・っ!!茜!?茜!?」  必死に辺りを見回すが茜の姿はない。  茜の姿どころか人の気配すら感じない部屋で、僕は今、両手足を拘束された状態で床に溶接された鉄製の椅子に括り付けられている。  するとその時、部屋の扉が静かに動いた。  扉からひょこっと顔を出したのは20代そこそこであろう女性だった。  部屋へと足を踏み入れながら「やっと起きたかー。待ちくたびれたよ」と呆れているかのような表情を見せる。  腰まである艶やかな黒髪をなびかせ歩く女性を目で追いつつ、「茜はっ・・・・・・僕と一緒に居た子はどうした!」と詰め寄るが、女性は一切怯む様子もなく、「ああ、あの子は元気だよ。むしろ生き生きしてるんじゃない?」と涼しい顔をして言った。 「お前は誰なんだ・・・・・・?何でこんなことを・・・・・・!」  全身真っ黒の洋服に身を包む女性の姿に、僕は全く見覚えがなかった。  どこか儚げで、まるで日本人形のような女性は、一度見たらそう簡単に忘れるはずがない。 「うーん・・・・・・好きだから?」  女性の返答は思いもよらないものだった。  鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、まさに今の僕のような顔に違いない。 「好きって・・・・・・会ったこともないのに・・・・・・?」と困惑する僕を見て、女性は「ああ、違う違う。君を好きって意味じゃないよ。こういうことをするのが好きなの」と飄々とこたえた。 「こういうことって・・・・・・人を監禁したりするのが好きってこと?」  女性は僕の姿を下から上まで隈なく見回す。  数秒間の沈黙の後、「うーん・・・・・・それもちょっと違うかな」と呟くと、「私が好きなのは、人を殺すこと」とあっけらかんとした様子で、確かにそう言った。 「・・・・・・・・・・・・ころ・・・・・・す?」  あまりにさっぱりとした女性の態度は、その言葉の物騒さとは不釣り合いなものだった。  続けて女性は、死刑宣告ともとれる言葉を発した。 「そう。君は今日、死にます」 「え・・・・・・」  『なんで』という言葉を続けようとした瞬間、右胸にこれまで感じたことのないような衝撃が走った。   「うがあああぁぁ!!!!」  人生最大の絶叫であっただろう。  最初は右胸を凄まじい力で殴られただけかと思ったが、よく見ると女性の右手には杭のようなものが握られていた。  真っ白だったTシャツが、みるみる間に血の色に染まってゆく。  夢であるなら早く覚めてほしかった。 「・・・・・・うーん」  どこか不満げな声を漏らしながら、女性はもう一度僕の右胸を突き刺した。 「ぐあああぁぁぁぁ」  痛みと衝撃で気が狂いそうになりながら、『なぜ僕がこんな目に遭っているのだろう』と、どこか冷静に考えていた。 「まだまだ死ねないよ。だって心臓は避けてるからね」と言いながら、さらに二度、僕の胸を突き刺す。  痛いのか苦しいのかどうなのかも冷静に判断出来ないほど、意識が朦朧としている。  完全に赤く染まりきったTシャツからもただならぬ量の出血をしているのは明らかだ。真っ赤に染まったそれは、命の終わりが近づいていることを表しているようだった。 「なんで自分がこんな目にって思ってるだろうけど、あたしに聞かれても知らないよ。でもまあ、あたしのところに持って来たってことは相当あの子のお気に入りだったってことだし、光栄に思ってもいいんじゃない?」  女性の言葉の意味が、僕には全くわからなかった。この状況を光栄だなんて誰が思えるのかと苛立ちさえ覚えた。 「次で最後ってところかな。あたしね、あんまり騒がしくされるの好きじゃないんだ」  最後・・・・・・トドメということだろう。  ここでようやく、この女性が本当に僕を殺すつもりであるということを理解した。  僕は今日ここで死ぬ。  最後に彼女の笑顔をもう一度見たかった。陽だまりのように柔らかなあの笑顔を。  死を意識した途端、走馬灯のように彼女との日々、彼女の笑顔が目に浮かぶ。  目に浮かんでくる彼女の笑顔はやけにリアルで、まるで本当に目の前に居るかのように感じられた。  いや、走馬灯・・・・・・なんかではない。  いつの間にか、笑顔でカメラを構える彼女が目の前に立っていた。 「・・・・・・ああぁ・・・・・・なん・・・・・・で」  僕の問いかけに彼女がこたえる素振りはなく、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。  天使のような笑顔が却って恐ろしく、その笑顔は天使というよりも冷酷な悪魔のようだった。 「いいよ。今までで一番いい表情だよ」  そう言った彼女の表情は、僕が今までに見てきたどんな表情よりも、一番輝いていた。 「ほら、笑って」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加