七十五歳

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七十五歳

 最後にアルゼに会えたのは、二十五のときだった。その年の湖の氷は、三日で溶けた。  それ以来、真冬にも厚い氷が張らない異常気象が長いこと続いた。異常気象も、十年続けばそれがふつうになる。  この冬こそは、と湖に足を踏み出す。そのたびに、薄い氷が足の下で無残に砕け散った。その絶望の音に、何度身を震わせたか分からない。  もう会えないのか、アルゼ。どうか、私のもとに戻ってきてくれ。    ひたすらに冬を待つ。遅い春、短い夏、過ぎ去る秋、そして終わらない冬を願う。ただひとり息をひそめ、湖に氷が張る日を待ち、数えきれないほどの季節を見送る。  この冬、五十年ぶりの大寒波がこの地方を襲うという。そのニュースをラジオで聞き、すべての家財道具を処分した。手元にわずかに残った財産を、自然保護団体に寄付する。 「アルゼ! どこにいるんだ、アルゼ!」  吹き荒ぶ、白の嵐。世界が雪白にかき消される。 「僕の名を呼んでくれ、アルゼ!」  白い壁の向こうから、細い指が伸びた。  ――ヴィル。ここに来て、ヴィル。私の愛しい人。  氷の腕を掴み、引き寄せ、胸の中に抱きしめる。  飽きるほど夢に見た、薄青の水晶。流れる白銀の髪。  出会ったときと少しも変わらない、この世で最もきれいなアルゼ。  潤んだ瞳が僕を見上げ、その指が僕の頬を包む。  アルゼ、僕は歳を取っただろう。いまはもう、こんな老いぼれだ。それでもまだ、僕を愛してくれる?    ――もちろんよ、ヴィル。愛してるわ。  深く、冷たいくちづけをする。  アルゼ。愛しいアルゼ。連れて行ってくれ、僕を。  もうこれ以上、ひとりで君を待てない。僕を強く抱きしめて、二度と離さないで。  白い睫毛から、銀の光が零れる。温かい、冷たい、君の笑みが風に攫われ、白い光の尾を引き、消える。  ――もう二度と離さない。一緒に行きましょう、冷たい水の底へ。  からだに吹きつける強風。視界を塗りつぶす、白、白、白――  冬よ。 雪よ。 氷よ。 湖よ。  果てしない白よ。  どうか僕らを祝福してくれ。  願わくは僕らに、永久(とこしえ)の冬を。  身体の感覚が遠のく。心地よい眠りに手を引かれ、微睡み、揺蕩い、吸い込まれ、落ちて――  最後に残ったのは、君の優しい冷たさだけ。
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