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夜の散歩は、楽しい。
子供の頃には許されなかった遊びだからだろうか。
宵闇の中の孤独が、ほんのりとした背徳感を醸成する。
鋭い風が頬を撫でる。
「うー、さっみ……」
俺は独りごちながら目的もなく足を動かす。
5キロも歩けば体の芯は温まるが、手足は氷のようだ。
「は~もうその通りでふ! だからぁ、お前からもあいつに言ってやってくれんかぁ…おれとお前の仲だろぅ?」
一人電信柱に話しかける、まるでテンプレートのような酔っぱらいのおじさんがいる。
*
――あなた、何考えてるかわからないから、不安になるの。
――ちょっと、しばらく、距離を置きましょう。
――ごめんなさい。
謝らないでよ。由江さんは悪くない。
俺がつまらない男なだけだよ。
*
「ワンワンっ!!」
宵っ張りなどこかの飼い犬が、なわばりに見慣れない男が入ってきたことに吠える。飼い主想いな奴だ。
「元気だな……」
俺にはそんな元気はない。俺にはそんな思いやりも、ないようだ。
手足の突き刺すような痛みが、冷たいと言われた俺にはふさわしい気がした。
鼻をすすり、またあてもなく足を動かす。
りりん、と涼しい音色を響かせ、自転車らしき影が通り過ぎた。
道交法52条。無灯火。罰金刑だぞ。
*
――もっと感情出していこうぜ。
――仏頂面じゃつまらんだろ。
高校時代の先輩の声がリフレインした。
俺なりに喜怒哀楽、表現してるんだけどな。
――つまらん奴。
誰にも気さくなクラスのリーダーにそう言われた気がして以来、教室で顔を上げられなくなった。「つまらん奴」にできるのは受験勉強ぐらいだった。
進学で大きな都市に移り住み、自由を得ることで、変われるかと思ったんだけど。
*
どん、と背中に何かが当たる。
「こいつもぉ、おれ頑張ってるって!! ……兄ちゃんもそう思うだろ~?」
さっきのおじさんだった。古ぼけた電柱と固い友情が芽生えているようだった。返事をすることのないコンクリートを撫でている。
泥酔していてわかりづらかったが、年のころは案外若そうだ。小柄でくたびれたスーツを纏っている。
うだうだと考えながら歩いていたら、ぐるりと巡って元の電柱傍に戻ってしまったようだった。
踵を返そうとした俺を、おじさんは気にも留めず話し続ける。
「おれはね、いっぱい失敗したけど、次はしないんだぁ。なんせ……」
「なんせ……立体は平行の母!」わけのわからないことを楽しげに口走る彼。唐突にこちらを向かれ、少し後ずさる俺。
「ムサシフカくんびっくりするろ~……!なぁ、兄ちゃん!」
ンナハハ!とその男があたかも満足げに笑うと、アルコールを含んだ吐息が顔にかかる。相当呑んでいるらしい。これは翌朝には痴態を演じている事すら覚えてなさそうな勢いだ。
「あの…」やめてください、と振り払おうとして、止まる。
「……そうですね」
視線を合わせず、小さな声で同意してやる。今この一瞬しかいない酔っぱらいのおじさんに対する同情心というか――気まぐれだった。
瞬間、おじさんの目がぱあ、と輝いたのを見逃さなかった。
「ほーらな!」
至極満足げに頷くと、俺の肩に手を回してくる。
「兄ちゃんもだよぉ~頑張ってる!ほら、こんなに冷たくなるまでね~」
「わっ!やめてくださ……」
「おしおしおし!あっためてあげよぉ…」
乱暴に俺の頭をかきむしりながら、にこにこと、まっすぐな笑顔を俺に向けるおじさんの腕は、やたらと暖かかった。
知っている。アルコールを摂取すると血管が太くなる作用で体温が上昇する。
おじさんは反対の腕でも電柱の突起と握手して、みんな頑張ってる~などと歌い上げながら、うんうんとうなずいていた。
暖かさ。
俺には情はよくわからない。
でも、たしかに暖かかった。
と思う。
「!! オゴロロロ…」
しかし機嫌のよかった彼は、数秒もたたないうちに、暴れまわった酔っ払いらしく、急に嘔吐した。
「うわっ!」
そして、俺が対応する間もないまま、そのままぐったりと眠っていった。
どうしようか。体温の高い酔っ払いと一緒に、冬目前の張りつめた空気の中ぽつんとたたずむ。静けさが、さっきまでの倍身に沁みた。
天の助け――ちょうどいいタイミング、だったのだろう。
「あ! タケナカさんこんなところに!」
「って吐いてるし! 弱いのに飲み過ぎです!」
「あら…お兄さん、ごめんねぇ。弁償はこの人にさせるから…」
ばたばたと数人の集団が近づいてきた。おじさんを探していたようだ。
俺はぼうっとしたまま、おじさん&吐しゃ物から救助される。
そのあと1時間ぐらい経って、着替えをもらうだの連絡先交換だのを済ませ、やっと解放された。あのおじさんは彼らの上司だったらしく、滅茶苦茶謝られた。
「はあ、ツイてなかったな……」
あのまま歩いて帰るのはしんどいだろう、とのことで、タクシーで数キロ先の自宅まで送ってもらった。身がボロボロになった俺は、部屋に戻ってあらためてシャワーを浴びる。
湯冷めしそうな体をせんべい布団に滑り込ませながら、ぼんやり思う。
――次あいつに会ったら、笑って挨拶してみよう。
――あのおじさんみたいに。
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