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「こんな日は、全身に水かぶりたくなるよね」
俺はどちらかというと、汗をかいている瞬間、息が切れている瞬間の方が好きだ。
けれど、それを言うと大体の人が引くのも知っている。
「練習終わってからにした方がいいですよ」
軽く会釈をして水道の蛇口をひねる。
水で軽く顔を洗って、首にかけていたタオルでふく。
「うちの練習きついでしょ?」
大丈夫と聞かれるけれど、これもなんて答えたらいいのか分からない。
体が限界になって、自分の呼吸と、全身の筋肉の感触とそんなものしか感じられなくなる瞬間が好きだから。
「部活好きですよ」
走ることが好きだから、態々こんな部活漬けの生活をしているのだ。
そこだけは多分この人も同じだろう。
その人は、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「だよねえ。俺も走るのは好き」
佐久間さんは面白そうに笑った。
かみ合っていない様な会話だったと思う。
けれど、佐久間さんはとても嬉しそうで、その瞬間はやっかみとか、先輩後輩とか、将来へのプレッシャーとか、そんなものは何も関係なさそうで、思わず俺も微笑み返してしまった。
吐息で笑う音が聞こえる。
走っている時の呼吸と違う、少しだけ声の混ざった不思議な音色だった。
それから佐久間さんは俺に手をのばした。
「寝ぐせ、可愛いなあ」
朝どうしても癖が残ってしまった髪の毛を佐久間さんが触った。
あっ。そう思ったときにはもう駄目だった。
なんの変哲もない。ちょっとした言葉だけで、人は恋に落ちるんだなとその日俺は身をもって知った。
髪の毛を触っただけの筈なのに、佐久間さんの手の熱が伝わった様な気がしてしまう。
本当に彼の手の温度が温かかったのかさえ知らないけれど、勝手にそう思う。
なんだこれ、と思う。
心臓はどくどくと脈打っているし、全身の血管が広がる感触がする。
指先がビリビリと痺れている感覚さえする。
その瞬間、何の意味もなく俺は部活の先輩に恋をしてしまったのだ。
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