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父の秘密
亜沙美の父が息を引き取ったのは、昨日だった。
昨晩の雨で地面は、まだ濡れており柔らかい朝日が地面の水溜りに反射する。亜沙美は思わぬ眩しさに目を覆った。昨日は夜伽で、母や親戚と交代で亡くなった父を見守っていたのだ。微睡む瞳と疲れが抜けきれていない亜沙美の身体に朝日は眩しすぎた。
亜沙美は、涙を堪えて気丈に振る舞う母の姿が耐えられなくなり、コンビニに行きたいと言い訳をして葬儀場を抜け出した。
葬儀場から踏み出すと、亜沙美のえんじ色のリボンと紺色のセーラ服の裾が風に揺れる。中学3年生の亜沙美にとっては、毎日着ていたこの制服が正装だった。
目の前を真っ青な車と自転車が通り過ぎる。亜沙美にとって信じられない出来事が起こっているのに、亜沙美以外の人は平然と日常を送っているなんて、不公平だと憤っていた。
葬式場の前には看板が立て掛けられている。
亜沙美の前に立ち塞がる『須藤雅之儀葬儀場』の看板。
昨日、亜沙美は父が死んだと知らせを受けた時、実感など全く無かった。だが、この会場に着いた途端、1番に亜沙美を出迎えたのはこの看板だった。看板を見た瞬間父は本当に死んだのだと、亜沙美の胸には悲しみよりも深い感情が広がった。胸にぽっかりと穴が空いてしまった様な言い知れぬ絶望感。
昨日初めて見た看板の言葉は、夢の様に心を切り離していた亜沙美を、一気に現実に引き戻させた。その言葉は、お前の父親は死んだのだと、喉元にナイフを突きつけている様だった。
看板の言葉の意味を理解した瞬間、亜沙美の目から涙が溢れ出た。亜沙美の心は水面ギリギリのコップのように感情がギリギリまで顔を覗かせていたのだ。一度溢れ出すと止まらず留めることもできない。
一晩経った今でも、看板の言葉は私の胸を柔らかく抉る。
亜沙美は父親の事が大好きだった。父親もそんな風に懐く亜沙美を可愛がっていた。会社の同僚にも親戚にも亜沙美の事を自慢していた。
父親の死は突然だった。バイク事故だ。その日の朝、父は大好きなバイクでツーリング仲間と出かけていった。私は笑顔で父を見送った。
父も同じように、また。
それが私達の最後だった。お別れの言葉も交わさずに父はいってしまった。ただいまも言わず帰ってきた父の顔は真っ白だった。
亜沙美は昔の父の話をふと思い出した。父が私だけにこっそりと話してくれた話がある。
「自分が死んだら、書斎の下の引き出しを開けて欲しい。ただ、自分が死ぬまではまだ開けないでくれ。」
その時は、父が死ぬなんて、あり得ないと私は笑い飛ばしたのだ。
亜沙美は葬儀が終われば、引き出しを開ける。生前の亜沙美と父だけの約束を守るのだ。何一つ違えない様に。
「待っててね、お父さん。」
亜沙美は葬儀場の奥を見つめて、そう呟いた。きっと父親に届いていると信じて。
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