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4.
それから数ヶ月して。曇り空のどんよりした日。僕は【ランデブー】の前で突っ立っていた。いつもなら、ガラス越しに見えるふかふかのパン。それが、ここ二日ほど、カーテンに遮られて見えない。ドアの前には昨日にはなかった『お知らせ』と記載された張り紙。
『誠に申し訳ございませんが火曜日まで休みとさせていただきます 店主』
火曜日まで三日もある。こんなに長く休むのは、僕が知っている数ヶ月の間、初めてのことだ。佐々木さんに何かあったのだろうか。僕はスマホを取り出して、佐々木さんにメールを送信した。昨日もその前の日も、顔を見なかったので僕は寂しくてたまらない。連絡先を知らなかったら僕はきっと落ち込んでいただろう。
返信に気がついたのは、それから二時間くらい経ってから。珍しくお客さんが重なって来たのでスマホを確認できなかった。お客さんがいなくなって、僕はすぐスマホを取り出した。
『風邪をひいてしまい、熱が出たので休みにしたよ』
いつもはもっと長い文章なのに、こんなに短いのは熱で体がしんどいからだろうか。たしか佐々木さんは一人暮らしだと聞いた。じゃあ、看病してくれる人もいなくて一人なのだろう。
『ちゃんと食べれてますか?必要なものがあれば言ってください。買い物してお届けに行きます』
住所も知らないのに、僕はそう返信した。すると数分して届いた佐々木さんの返事。
『申し訳ないけどお願いして良いかな』
返信に数分かかったのはきっと、迷ったんだと思う。いつもの佐々木さんなら遠慮しただろう。なのにこうして頼ってくるということは本当にしんどいんだろうな。
僕はレジの奥で作業していた安田さんに声をかけた。
「安田さん、すみませんが今日、早上がりしていいですか?友人が寝込んでて」
作業していた手を止めて、安田さんは振り向いた。
「おおそれは大変だ。看病してあげなさい。こっちは大丈夫だから」
安田さんは、店の奥にあった小説を一冊僕に手渡してくれた。何だろうと思ったら見舞いの品にあげなさいと言われた。入院じゃないんだから、と僕は笑ったがその気持ちが嬉しくてそっと鞄の中に入れた。
教えてもらった住所のマンションに行き、エントランスでインターフォンを鳴らすと、佐々木さんのかすれた声が聞こえた。
『和馬くん、ありがとね。今開けるから』
エントランスの自動ドアが開き、八階まですすんで佐々木さんの部屋のチャイムを鳴らす。看病のために来たはずなんだけど、不謹慎にもこれで佐々木さんの部屋、分かっちゃったなんて、にやついてしまう。玄関のドアが開いて、中から佐々木さんが出てきた。いつも綺麗にしている髪はぼさぼさになっているし、目の下にひどいクマができている。熱が出ているせいで顔が赤くなっていた。
「ありがとう。部屋に入るとうつったらいけないから、ここで受け取るよ」
ああ、やっぱり遠慮しがちな佐々木さんの悪い癖が出ている。ここまできて看病しないなんてありえないでしょ。
「そんな、遠慮しないで。大丈夫、マスクしてきたし!せめてお粥作らせて」
僕は佐々木さんの体をぐいっと玄関へ押し込んで、僕は半分無理矢理入り込んだ。佐々木さんは少し驚いた顔をしながらも、じゃあお願いしようかな、と呟いた。
男一人暮らしの割には片付いている室内。ただ、体調が悪いせいか洗い物はたまっていたけれど。お粥を作って、佐々木さんに食べてもらったあと、僕は洗い物とちょっとした掃除をした。そこまでしなくていいよ、と言われたけどどうせ暇ですからと、押し切った。
「和馬くん、いい旦那さんになれるよ」
冷却ジェルシートをおでこに張った佐々木さんがそう言う。いつもの綺麗な顔が少しだけ、可愛らしくなっている。ここに僕が来たよりは幾分か楽そうだ。飲み物がいるかなと思いキッチンに行って寝室に戻ると、佐々木さんはそのまま寝ていた。僕は布団を掛けてその顔を見た。こんなに間近で見れるなんて、ラッキーだ。体調が悪い佐々木さんには申し訳ないけれど。
長いまつげ、少し汗ばんだ顔。僕はむくむくとあらぬ欲求が高まっていく。佐々木さんはぐっすり寝てしまっているし……多分この先こんなチャンスは巡ってこないだろう。
僕は自分の体を佐々木さんの方へ近づけて、そっと唇にキスをした。こんな形でキスしてごめんね、佐々木さん。一度離して、もう一度佐々木さんの顔を見る。やっぱり熟睡しているから、気がつかない。僕は佐々木さんのしっとりした前髪に触れる。
「好きです、佐々木さん」
そう言ってもう一回、キスした。
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