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0. 邂逅
ーーー夜にも、晴れがあるのだと知った。
見渡す限り濃紺の夜空に、まるで雑に砂金が散りばめられたように星がある。それが一切、雲に阻まれることなく光を発している。
端、から、端。
ぐるりと目で追っていく。上に登り、下がり、やがて突き当たる、横一筋の曲線。それは不自然に湾曲した水平線で、月の光を反射して始めて輪郭を保っているのだと知る。そのすぐ内側は、底知れない物量の漆黒。海、海、海。
やがて足元に目を移す。
木製のバルコニー。隙間から見える軒下の波面。
クリーム色の砂の上に1メートルほど満ちた海水は、照明に照らされて緑色に光る。
それはガラスにも似て、うだる暑さにぬるびていた昼間のそれとは似ても似つかないほど、凛として見えた。
下から反射する光に自分の顎が照らされているのがわかる。
「絶海の孤島ならぬ、絶海のホテル、ねぇ………。この先何年あるんだか。」
鮫島 冬慈は、そう呟いて再びその水平線に目を上げた。見渡す限り、前にも後ろにも陸は無い。それはこのホテルが、広い海の中でポツンとただずんでいる、文字通り"絶海のホテル"だからだ。
鈴なりの客室は一棟ずつ海上に建てられ、それを木製のデッキが申し訳程度に繋いでいく。
その中心にあたる部分にはフロントやダイニングなど共有施設がある。その他にも散歩用のデッキや船着場があり、様々な施設が全て海の上に浮かんでいるその様は、まるで小さな分散型の街だった。
こうして宇宙に対して丸腰にさらされている空間で頼りない木製の建造物が淡い人工の光を照らしているのは、どうにも慎ましく、健気に思われる。ロマンチックと言えば聞こえは良いが、独り身でバカンスに来た自分にはどこか心細い。
そのうちの1つのバルコニーで手すりに寄りかかると、使い慣れた銀製のライターで煙草に火を着けた。充分な夜だと言うのに風は凪いでいて、浮世離れした時間を思わせる。
深く息を吸い込む。
おもむろに真上を見上げて、おおげさに煙を吐く。
濁った紫煙はほんの少しだけあたりを曇らせて、そしてすぐに消えた。吸い込まれる。まさに雲散霧消。
残された夜空は、まるで汚れていない。
元通り澄み切って、また静かに星の瞬きを降らせる。
「……クソ。忌々しいな。」
「何が、忌々しいんだよ。」
太い自分の声にふいに被せられた若い男の声に、鮫島は思わず煙草を取り落した。
「………デッキに焦げ跡作ると、オーナー怒んぞ。」
階下のデッキから階段を上がってきたその男に、思わず息を呑む。海パン姿のその男は、控えめに言って美青年だった。20歳になるかどうか、判断がつかない。海上の生活に耐えうるよく引き締まった上半身の裸体はそれでいて若さを思わせ、濡れた薄茶の髪が月明かりの下でぼんやりと光る。
君子危うきに近寄らず、または君子の交わりは淡きこと水の如し。
さりとて……
森羅万象に引力があるように、見るものを魅了するような姿。それを見て、鮫島は結局の所、あの男との出会いを思い出していた。
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