人を傷つけない笑いは可能か

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人を傷つけない笑いは可能か

 「人を傷つけない笑い」が時流となって久しい。  多くのお笑い好きにとって、近年のお笑いは、優しさや思いやり、芸人相互の関係性やリスペクトの有無を重要視する。そうした前提なくして、面白いものはもはや作れないという空気感すらある。  2000年代後半に、爆笑問題の太田光さんが指摘していたように※、ドリフや欽ちゃんのような家族揃って楽しめる王道の笑いに対するアンチテーゼとして、昭和後期から平成にかけて、毒の強い過激な不条理ギャグが台頭した時代があった。  ツービートの「赤信号みんなで渡れば怖くない」はその代表的なギャグともいえるだろう。あくまでもネタとして見た場合、今でも面白いし、自分が幼少期のときに好きだったギャグの1つでもあるが、実際にやったら面白いわけではないし、最近の笑いの主流とはちょっと違うようにも思う。  ダウンタウンの松本人志さんは、2010年にNHKでコント番組を制作する際、「(かつてのブラックで狂気的な笑いよりも)徳のあることをやりたい」という趣旨のことをインタビューにて語っていた※※。  笑いは時代を映す鑑でもある。  笑いとは、本来人を容易に傷つける「毒」を内包したものである。そうした毒は、偽善者を糾弾したり、弱者の側から強者を風刺したり、疎外された他者を受け入れるための装置として有益に機能してきた。一方で、そんな笑いの力を悪用したり、勘違いしたりした失敗例は枚挙にいとまがない。自分もそんな勘違い者の1人だ。  そして今、多様性を尊重する多くの現代人は、自分に限らず何者をも傷つけない「人に優しい笑い」を切に望んでいる。  失言や問題発言、また失敗表現の多くは、その発信者がなんらかの意図により「受けを狙って、相手との関係をより良くしよう」としてとったアクションが、結果としてだれかを傷つける(可能性がある)という悲劇を生む、という共通点がある。  善意で解釈するならば、プロアマを問わず大多数の表現者は、最初から人を不快にさせたり、悲しませようとしているわけではない。あくまでも相手を笑わせよう、面白がらせよう、または驚かせよう、ひいては喜ばせようとして、逆効果になったり、空回りしてしまうのである。  そうした失敗表現は、最近はネットで議論されたり、批判や炎上もしやすくなっている。自分自身、言葉や表現の重みには今一度気をつけたいと思っている。  ただ、一般人でも自由にそうした議論ができるというのは、私たちの笑いに対する価値観やリテラシーがそれだけ成熟していることの証左でもある。  明日、来年、何が起きるか分からない時代に私たちは生かされている。現代人は、かつて流行した「毒をもって毒を制す」的な、ブラックで破壊的な笑いから一歩進み、送り手も受け手も無理しないで、傷ついた心に明るい光を灯してくれるような「人を癒す笑い」を求めているのかも知れない。 「ですから、人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です。」マタイの福音書7:12  〈注〉 ※……「たけしの日本教育白書」フジテレビ系列、2006年11月11日放送 ※※……「プロフェッショナル 仕事の流儀 松本人志スペシャル」NHK総合、2010年10月16日放送   ©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3号  
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