リンデンヴェール

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私は決意して美矢乃さまを真っ直ぐに見つめた。 もう、逃げない。自分の心から。私の幸せを、私のありとあらゆるものを願い続けてきてくださったであろう美矢乃さまを裏切ることになるから。 「美矢乃さま……私の心は、弱い心と逃げ道をたくさん作った心ばかりで、さしあげられるのは、今、美矢乃さまが好きだという心だけです。……許してくださいますか?」 言ってしまった。ついに、言ってしまった。 私は首まで真っ赤だったに違いない。それを、食い入るように見つめる美矢乃さまはおもむろに私を抱きしめた。締め上げるものではなく、触れるだけのくちづけに似たものだった。 美矢乃さまの鼓動が伝わる。どくどくと大きく早く。それが私のそれと交わる。融合しそうだ。 美矢乃さまが耳元で囁いた。 「……嬉しい。幸せよ、千香。もう後戻りはさせないわよ? 私は千香とあらゆるものを共有したいの。衝動任せの抱擁も、痛みも、この世の美しいすべても。……愛しているわ、千香。一度繋いだ手は決して離さない」 「……美矢乃さま……」 おそらく、──美矢乃さまと私は、魂の契りを交わすのだろう。そう遠くない未来に。 魂の契りを交わしたあとに、どうなるかは分からない。 前に踏み出しても、答えは見つからないかもしれない。 だけど、信じて心を開きたい。 今なら──美矢乃さまと向き合えた今なら、迷路も怖くない。 「月は出ていないけれど……炎が美しいわね、千香」 「……はい、美しいですね」 キャンプファイヤーの炎が、あんなにも明るいのに遠くて私達を照らさない。 だから、ふたりきり、そっと手を繋いで、もたれあった。 繋いだ手から伝わる脈動から、互いに心臓で互いを呼び合い、求めあっているのが分かる。 美矢乃さまが時おり、繋ぐ手に力を籠める。その度に胸が言葉では足りない喜びで満ちる。 私はそっと握り返して応えた。 * * * 幼い頃に覚えた自傷は、実はつい最近まで続けていた。 カッターの刃で腕を切る。ぴりりと痛みが走って、ぶつぶつと肉を切る感触があって、それから玉のような血が膨れあがって滴りだす。それをひとしきり眺めてから舐める。 一度切って切れ味が悪くなった刃は、カッターの刃を折り取って捨てられるプラスチック容器に折り捨てていた。いっぱいになったら、新聞紙に包んで捨てて、新しい容器を買ってくる。 自傷は不思議だ。 ──ねえ、こんなに痛いんだよ。こんなに血が出てるんだよ。 ──ねえ、痛いの。ねえ、血が出てるの。 独りきりなのに、誇示できる。 私は麻薬のようにアルコールのように精神安定剤のように、自傷を続けていた。 あの、美矢乃さまとの舞台まで。 それまで、母が私を愛しきれなかったように、愛には無惨な終わりがあると思っていた。 美矢乃さまの蜜色の瞳が、私から逸らされる。お言葉が途切れ、私へと注がれなくなる。それらが他の誰かへと向けられるようになる。いつか、そんな日が来ると。 ──残酷さに絶望しないためなら、信じなければ楽でしょう? でも、美矢乃さまの想いを自覚した今なら、やめてもいいかとも思えている。美矢乃さまのお言葉には、それだけの力があった。 ──終わりのないことなんてないのに。 ──もしもこれが終わったら、どうすればいい? 自問自答しながら、それでも自傷する気にはならなかった。 それよりも、問題は目の前だ。今日は文化祭の振り替え休日なのだけれど、美矢乃さまが私の部屋に遊びに来るのだ。──まだ魂の契りは交わしていないものの、近日中に正式に美矢乃さまのお父様にお会いして魂の契りを交わすことを報告させて頂く。その打ち合わせとして特別に許可がおりた。 私は潔癖というほどではないけれど、部屋の整頓はしてある。掃除機も毎日かけている。晴れた日には布団も干している。洗濯も、どんなに部活で疲れていても毎日している。何しろ──辛い過去だけれど──幼い頃に仕込まれて体に叩き込んだことなのだ。この寮の恵まれた環境下では、そんなに苦にならない。 でも、遊びらしい遊びを知らないのが難点だ。お茶だって、ごくありふれたものしかない。ティーパックの紅茶なんて、美矢乃さまにお出ししてもいいのだろうか。 そうだ、いっそのこと食堂に場を移して頂ければ厨房のひとが美味しいお茶を淹れてくれるかもしれない──と、考えたところでドアを軽く3回ノックする音が耳に飛び込んできた。びくりと大きく反応してしまった。 「千香? 私よ、時間まで待ちきれなくて早めに来てしまったわ」 ごくりと息を呑んでドアノブに手をかける。南無三。 「……は、はい……美矢乃さま、ようこそ。面白いものは何もない部屋ですみません……」 「あら、千香の住む部屋だということに価値があるのよ? 千香の眠るベッドにダイブして匂いを嗅いで、千香の学ぶデスクに着いて千香がどう授業のノートをとっているかを見るのよ。それから、お洗濯には何の洗剤を使っているか……」 「美矢乃さま、勘弁してください!」 思わず絶叫に近い声が出て、なまじ演劇なんてやっているものだから、お腹から頭へ通る声を出すのに慣れきっていて、おかげで廊下を歩いている数名の生徒の注目を浴びてしまった。 「と、とにかく中へ。お入りください……」 「ええ、ああ楽しみだこと。千香の生活に突撃できる日が来るなんて……」 美矢乃さまが遠慮なく部屋に入り、ドアを閉める。すると、浮き立っていた美矢乃さまの様子が一変した。 「……美矢乃さま?」 ご自分の部屋と比べてお粗末すぎたのだろうか。難しい顔をされている。 しかし、美矢乃さまが口を開いて言葉が出たとき、私は悔やんでも悔やみきれない思いをした。 「千香の血の匂いがするわ、どこかしら?……ああ、これね」 「──美矢乃さまっ……!」 美矢乃さまの行動は素早くて、ついていけなかった。大きなストライドで歩いて目標物を躊躇なく手に納めた。軽く振り、逆さにしてから再度振り、眉根を寄せ、ボトルのキャップを回して蓋を開けてしまう。私もこれだけは見せまいと腕にしがみついたけれど、吸血鬼の腕力には遠く及ばない。 「千香、この大量の刃は何? ここから感じる千香の血の匂いは何?」 「…………」 時として沈黙は雄弁だ。 私が何も答えられずにいると、それだけで美矢乃さまはすべてを察してしまわれたらしい。 「……いつから? まだ鮮明な匂いも混ざっているわね」 「……7歳頃からです……母からの虐待がきっかけで……」 「でも、今は違うでしょう? なぜやめられずにいたの? 母君からの仕打ちを思い出さずにはいられなかったのかしら?」 「……それは……」 漫然と続けてきたことを正直に告白してもいいのだろうか。きっと、呆れられる。軽蔑される。心は離れてゆくだろう。 ──そのとき、美矢乃さまがボトルを握り潰した。 まだ刃の入っているボトルだ。当然、美矢乃さまの美しく白い手はすぐに血を滴らせた。 「美矢乃さま、手をっ……!」 「……殴りたいわ」 低く堪えた声が、雪世界のごとき静寂のなか声を際立たせる部屋に響く。 ああ、もう嫌われたのだ。美矢乃さまは私の愚行を怒っていらっしゃる。 私は、美矢乃さまを失う覚悟を決めようと俯いた。カーペットにできた赤い染みが私を弾劾している。 「……殴り飛ばしたい。いつも好きだ好きだとしか言わずにいた私を。心さえこもっていれば、千香の心に届いていると妄信していた自分を殴り飛ばしたい。届きさえすれば、ふたりで明日に行けると甘くみていた自分を。千香の血の涙を拭えずにいた自分を」 「……美矢乃さま……悪いのは、すべて私で……ですから……」 ご自分を責めないでください、美矢乃さまは何ひとつ悪くないのです。──そう言おうとしたところで、片腕で抱き寄せられた。 「お願いよ、千香、私にあなたを孤独にさせないで。独りだと思いそうな千香を抱き締めさせて。お願い……」 真摯で今にも崩れそうな、それでいて崩れない懇願に、胸が苦しい。こんな苦しい心臓、いっそのこと取り出してしまいたい。取り出して宥めすかして、──最後に美矢乃さまがくちづけてくださったら、どんなに楽だろう。 けれど、それは根本的な解決にならないのだ。美矢乃さまの求めるものとは真逆だろう。 「……千香、答えて。どんなときに切っていたの? いつまで切っていたの? あなたの隠している闇を、私には話せないかしら?」 「美矢乃さま……話したくは、ありませんが……ですけれど、美矢乃さまは真心でもって訊ねてきてくださってらっしゃると……信じています。……聞き苦しい話ですが……」 「いいわ、話せる範囲でいいから聞かせてちょうだい。受けとめきれるかは分からない。でも、千香の一部ですもの、受け容れるわ」 私はその一言に背中を押されて話し出した。 母の虐待、痴漢と男の性的虐待、施設での日々。愛というものに疑念を抱き続けてきた日々のことを。 美矢乃さまは、片腕で私を抱きしめたまま黙って聞いていてくださった。怖くて顔を上げることはできず、柔らかい香りのする美矢乃さまの胸元に顔をうずめたまま話した。 話し終えると、美矢乃さまが深く息をついた。少し考える素振りをしながら、私を抱いていた腕を離して、その手で私の頬に触れ、顔を上げさせた。 「……あなたは、もがいてきたのね。自分を癒したくて、自分を殺すのが悲しくて。正直、私に千香のすべてを癒せるかは分からないわ。けれど、これだけは誓える。千香、あなたが本当に生きることを諦めさせない。独りになりそうになったら手を繋ぐわ」 「……美矢乃さま……許してくださるのですか? こんなにも汚なく歪んだ私なのに……」 「──ほら、こんなとき」 頬に触れていた手が、私の片手をとる。美矢乃さまは指を絡めて掲げてみせた。 そのときの眼差しは聖母のようで、懺悔を終えた私の瞳からは涙が溢れていた。 私は過ぎ去った悲しみ悔しさ恐怖に呑み込まれていた自分を恥じた。 今はもう、部屋の片隅にうずくまり震える子供ではないのに。なのに、逃げていたのだ。 「美矢乃さまっ……」 「ええ、千香。大丈夫よ、大丈夫だから……」 はらはらと止められない涙が心を洗ってゆく。 美矢乃さまの言葉をこそ美矢乃さまに求めていたのだと気づく。 無邪気に私のことを好きだと言い続けてきてくださった美矢乃さまに。常に仮りそめの舞台で求め合ってきてくださった美矢乃さまに。 ──ああ、私は何て馬鹿だったのだろう。私は救われてきていたのに。 「……もう、しません……こんな、ひどいこと二度としません」 「ええ、千香……信じるわ……だから、今は泣きたいだけ泣いて、泣きやんだら美味しいお茶を淹れましょう。茶葉を持ってきたのよ」 絡めた指をそのままに、美矢乃さまが私の涙をくちづけで吸いとってくださる。何度も何度も繰り返しくちづけられて──その優しさに、いつしか涙はおさまり始めた。 ──美矢乃さまに愛されている、この命、すべてを愛おしもう。大事にしよう。 それこそが愛だ。私は美矢乃さまを想うことで初めて生きたいと叫ぶ自分を自覚した。 ……大丈夫、大丈夫よ。 ダンピールに盗まれた母が、美矢乃さまの唇を借りて語りかけてくれたような気がした。 * * *
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