リンデンヴェール

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私は泣きやんだあと、まず美矢乃さまの手当てをさせて頂いた。無数の刃に傷ついた手は悲惨としか言いようがなく、けれど美矢乃さまは私が舐めることは受け容れなかった。舐めれば、その場で魂の契りを交わしたことになってしまうからだ。 救急箱からオキシドールと脱脂綿を出し、ひとつひとつ消毒してゆく。手は心臓よりも高くにして頂いて、消毒したあとに外用薬を塗ってガーゼを貼り、包帯できつく巻いた。 「これで、応急処置はできたと思います。……寮に戻られたら、きちんと医務室に行かれてくださいね?」 「ええ、分かったわ。──さ、お茶にしましょう。私喉が渇いたわ。千香もたくさん泣いて渇いているのではなくて?」 「は、はい……」 美矢乃さまが制服のポケットから小さな包みを取り出す。開くと、緑茶らしい茶葉が見えた。 「美矢乃さま、このお茶は……」 「私の家で大切なお客様にお出しするときに使う玉露よ。淹れ方は私が教えるわ。一緒に淹れましょう」 「……はい!」 それだけ大切に想われていると分かって嬉しくなり声が弾む。その私の反応に、美矢乃さまは満足そうに微笑まれた。 「とりあえず、電気ポットの温度調整ね」 私の部屋の電気ポットはティーパックの紅茶に合わせて高温に設定されていた。それを、美矢乃さまが下げる。 そうして、手順ひとつずつを丁寧に教えてくださった。 まず、玉露は新芽が出てすぐに覆いをかけ、光合成を控えさせて渋味が出ないようにするらしい。その茶葉は、安くても100グラムで1万円はする貴重なものだ。 それを、40度ほどのぬるいお湯で3分くらいかけて、ゆっくりと旨味を引き出す。急須から湯呑みに落とすときには、最後の一滴が大事になる。紅茶でいえばゴールデンドロップ。それによって本当に美味しい緑茶は完成する。最後の一滴に緊張して集中しようとする私に、美矢乃さまは手を添えて「こうするのよ」と言ってくださった。 ふたりで淹れた淡い色味のお茶は甘く、優しい香りが鼻腔を抜けて一服の幸せをもたらした。 「……美味しいです。美矢乃さま、こんなに美味しいお茶は初めて頂きました」 「よかったわ、手土産に持ってきて。千香とのコミュニケーションツールにもなったことだし、私も満足よ」 「もう、美矢乃さまはすぐに……そういうふうに……」 「あら、仕方がないでしょう。千香を愛しているのだもの」 「ですから、それが……その、糖分過剰というか……照れてしまいますので……控えめにお願いできたらと……」 このままでは、せっかくお茶で潤した喉が、すぐに干上がってしまいそうだ。 美矢乃さまは鈴を転がすような声で笑いながら、私の頭を撫でた。 「そうね、千香からのお願いなら考えるわ」 ……どうやら、考えるけれど実行するかは確約できないということらしい……。 「……はい、お願いしますよ?」 だから、首を少し傾げて『お願い』してみた。美矢乃さまへの効果は絶大だと確信しながら。 「ああ、ああ千香、何て可愛いの! ああでも約束したわ……この可愛い千香のお願いを聞かないわけにいかないじゃない……」 してやったり。 お茶を楽しんだあとは、美矢乃さまのお父様にお会いさせて頂く日取りを決めた。学校が休みで、お父様にもお時間を頂けるとき。 結局、来週の土曜日の夕方になった。美矢乃さまがお父様に直接電話してアポイントメントをとってくださった。 そのときの声は少し甘さを含んでいらして、信頼関係がみてとれた。きっと愛されて育てられ、美矢乃さまもそんなお父様のことを大事に思っていらっしゃるのだろう。受話器を通じたやり取りは断片的に温かい家族を感じさせた。 「……さて、話はついたことだし……名残惜しいけれど、私は寮に戻るわね」 「あ、……はい」 まだベッドにダイブしていない、デスクに着いてもいない。お断りしたせいもあるのかもしれないけれど、潔い引き際に少し……寂しくなった。 「で、では玄関までお見送りしますね」 「ええ、ありがとう、……千香」 ふ、と。察した唇が私の頬に触れた。 それは甘く甘く口のなかでとろけるマシュマロを思わせた。不意打ちでも今となっては怒る気にもならないで、寂しさを一瞬で温かさに変えた。 ──幸せだな。 そう実感した。 そして、それが寿命の限り続くことを願った。手を取り合い、末永く睦まじく寄り添える、ふたつでひとつの魂になれればいいと。 * * * ふたつ、美矢乃さまに「どうしても守って欲しいの」と言われたことがある。 それは、『自分の部屋以外の場所では決してひとりきりにならないこと』、そして『美矢乃さま以外のひとと決してふたりきりにならないこと』というものだった。 どうやら私には特別な『香り』があるらしく、吸血鬼や特にダンピールに対して強いフェロモンに似たものを放っているというのだ。私のファンクラブのメンバーがほぼ全員吸血鬼コースの生徒なあたり、得心がいく。 それに魅かれる輩から身を守ること。魂の契りを交わしたあとでも、『味見』のできるダンピールには狙われる可能性があることは母が実証しているため、この約束は何があっても破ってはならない。私は美矢乃さまの説明を聞いて肝に命じた。 そして、それがたとえ演劇部のひとであっても、ふたりきりにはなりませんと誓った。 それには、やはり一度ダンピールに襲われたことがあるのが大きい。あの恐ろしさ、血の凍る思い、自分が自分でなくなりながら自分のなかの何かが覚醒するようなあの錯覚は二度とごめんだ。 実際、文化祭が終わって日常に戻りつつあるなかで注視してみると、吸血鬼コースのひとから値踏みするような舌なめずりするような、妙な視線を感じるようになった。今までは心を閉ざしていたから気づかなかった。これは、美矢乃さまと離れて吸血鬼コースのひとと接触することの危うさを実感させて、ひやりとした。まったくの無知で無防備だった頃の自分が信じられないほどに。 今は魂の契りを交わすことを約定したことにより、朝は寮に美矢乃さまが迎えに来てくださり、お昼になると美矢乃さまが一般人コースの食堂に来てくださり、帰り道もまた美矢乃さまが一般人コースの私の教室まで迎えに来てくださって、寮の自室まで一緒に帰ってくださるという徹底ぶりだ。もはや周囲の目など気にする様子もない美矢乃さまは、当たり前のことをしていると信じていらっしゃる。私はといえば、一緒にいられるのは嬉しいし心強いけれど、美矢乃さまばかりに負担をかけているのではないかと心配ではあった。 だから、お父様にお会いする2日前に美矢乃さまから「明日はお天気がいいらしいから、お昼は外で食べましょう」と持ちかけてきて頂けたときには、何かお役に立てるかもしれないと思えて意気込んだ。 まずは、美矢乃さまから分けて頂いた玉露を朝のうちに部屋で淹れて、水筒に詰めた。保温もしてくれる、少し高いけれど思いきって購入しておいたものだ。試験前の追い込みによく使っていたのが、ここでも使えた。 それから、昼食のセットメニューをチェックしておいた。美矢乃さまは吸血鬼でいらっしゃるからかレバーや牛肉を好む。Bセットの、『ビーフシチューのパイ包み焼き』が目をひいた。イギリスの家庭料理だ。前にこれを見かけて食べたことがあるけれど、パイは香ばしくシチューは濃厚で芳醇で、とろとろに煮込んだ牛肉は口のなかでとろけて美味しかった。これなら美矢乃さまも喜ぶと思ったので、厨房のスタッフをされている方に電話で頼んで、お弁当向けに2つ用意して頂けることになった。 あとは、お昼休みを待つのみだ。 私は待ち遠しさを授業に集中することでやり過ごそうと努力した。勉強は理解ができればできるほど楽しくなるから、授業を楽しむことに尽力していると、時間はあっという間に過ぎた。……3時限目までは。 残りの1時限は、もう、落ち着いていられなくて時計ばかり見てしまった。その度に美矢乃さまが今の姿を見たらどう思われるかを想像してしまい、青くなったり赤くなったりと……寿命が10年は縮む思いだった。 そのせいだろう、チャイムが鳴ると同時に机に突っ伏してしまった。疲れた……。
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