リンデンヴェール

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でも、明日の緊張はきっと今日の比ではないのだろう。気を引き締めていかないといけない。 ──よし、目の前のことをひとつずつ頑張ろう。 机から顔を起こし、ぱちんと両手で頬をはたいてみて気合いを入れる。いい音がして、でも痛いというほどではなくて、適度な刺激があった。自傷は二度としないと決めたけれど、この程度なら自傷とはいわないから、これはいいかもしれない。 些細なことだけれど、いい方法を見つけられて、私の気分は疲弊から上昇した。あとはもう美矢乃さまのお越しを楽しみにするしかない。 私は同じクラスのひと達が食堂へ向かって出てゆくのを眺めながら待った。美矢乃さまは歩くのがとても速い。身長は普通なのに、脚が長い。加えて鍛え上げられている。いつも、片道5分くらいでいらっしゃる。 その美矢乃さまも──何か思ってらしたのだろうか? 「待たせたわね、千香。中庭に行きましょうか」 「……はい!」 いつもより2分早く私のクラスのドア前に来て声をかけてくださった。 私は、3時限目が終わった後の休憩時間中に、厨房のスタッフの方が気を利かせてわざわざ運んできてくださったお弁当と、自分が用意した水筒を抱えて立ち上がり、小走りに美矢乃さまのもとへ向かった。 向かい合うと、さりげなく美矢乃さまが私の持つお弁当を自分のあいている手に移して、もう片方の腕を私のあいた腕に絡めた。はたから見れば、完全な春真っ盛りのカップルだろう。でも、二度目になるが慣れとは怖いもので、美矢乃さまと腕を組んで歩くのは自然になってしまった。 お弁当は丁寧に保温容器に詰めて、保温バッグに入れられていた。蓋を開けると、まだ温かいのが分かった。 「千香、わざわざ用意してくれたの?」 「調理したのは厨房の方ですけど……あの、喜んで頂きたくて……あ、お茶もあるんです、美矢乃さまがくださった玉露。お弁当に合うかは分かりませんが……」 腕を組むのには慣れたけれど、こういう言葉にはいつまで経っても慣れない。気恥ずかしさで頭に血が集中してしまう。真っ向から美矢乃さまを見て言えない。 それでも美矢乃さまは喜びをあらわに、お弁当箱を大切そうに両手で包んだ。 「千香とこんなふうに過ごせるなんて夢みたいだわ。醒めない夢のなかでまどろんでいたくなるの。でも、夢ではないのね。夢のなかの千香はね、こうなる前のようにつれないのよ、ひどいわね」 「……でも、現実の私はひどいことしませんよ。美矢乃さまが無茶を言わなければですけど」 これは照れ隠しだ。文化祭前に顧問から課せられたミッション以降、美矢乃さまは私に一切強引なことや無茶なことはしなくなった。代わりに、献身的ともいうべき態度で接してくださる。 「あら、……まあいいわ、せっかくのご飯が冷めてしまう前に頂きましょうか」 「はい。これ、とても美味しいんですよ。美矢乃さまのお口に合うといいんですけど」 「千香が美味しいというのなら私にも美味しいわ。いい匂いね、何だか懐かしい匂いだわ」 ふたりで食前の簡単なお祈りをして、スプーンを料理につける。ひとくち食べて、ふわりと美矢乃さまが顔をほころばせた。 「美味しいわ、こういう料理は吸血鬼コースの食堂では出ないのよ。貴重な体験ね。ありがとう、千香」 「よかったです……」 安堵して私も食べ始める。前に食べたときより沁みて美味しく感じられた。体の芯から温まるような美味しさだった。 淡い日差しと穏やかな風が気持ちいい。そんななかで、中庭のベンチに並んで座り、ふたりでご飯を食べるのは、ささやかな贅沢だ。美矢乃さまが優雅に食べるのを見やる。美矢乃さまが私の食べているところを眺める。食べているという行為を互いに見るのは、それだけで日常のなか想いを通わせる行為だ。食べるという、生きるのに欠かせないものを共有する。一緒に食べるのは、一緒に生きることを共有することだと思える。 美矢乃さまがお弁当をひとくちずつ大切そうに食べるのを見ていると、どれだけ私を好きでいてくださっているのかが、それだけで伝わってきて、くすぐったい気持ちで満たされる。 「美矢乃さま、お茶を飲みますか?」 「ええ、ありがとう」 今ひとつ雰囲気が足りないけれど、水筒のコップにお茶を注いで美矢乃さまに手渡す。繊細な湯呑みが似合うお茶だけれど、美矢乃さまは構わないようだ。笑顔で受け取って、口をつける。喉が小さくこくりと動いた。 「美味しく淹れられているわね、千香は飲み込みが早いわ。一度しか教えていないのに。とても丁寧に淹れてくれたのが伝わるわ」 「あ……ありがとうございます……」 美矢乃さまは多弁ではないものの、褒める言葉や慈しむ言葉は惜しまない。しかもストレートだ。美矢乃さまが言葉を発する度に、私の心臓は胸に収まらないほど跳ねる。 「でも千香、今日はどういう風の吹きまわしかしら? 随分心を砕いてくれているようだけれど」 「それは……最近、美矢乃さまに気遣わせてばかりで負担をかけてしまっているのではないかと……私にできることを探したのですが、……何か他にも、お望みのことはありませんか?」 「まあ、千香。私がしたいからしているだけなのよ。千香を守ることが、結果として千香との時間を増やしているのだもの、それだけでご褒美だというのに。……でも、そうね」 美矢乃さまが口元に手をあてて思案する。これは──恥ずかしいことを頼まれそうな嫌な予感がする。 心のなかで慌てる私をよそに、美矢乃さまはにっこりと笑顔になって『お願い』してきた。 「少し休めるように、膝枕をしてくれるかしら?」 「ひざ……まくら……」 「そうよ、膝枕。それとも熱いくちづけがいいかしら?」 「──いえ、膝枕でお願いします」 即答せざるを得なかった。 「……じゃあ、……どうぞ……」 ベンチの端に体をずらして、美矢乃さまが横になれるようにする。美矢乃さまはスカートがめくれないように、そっと横になって嬉しそうに私の腿に頭を乗せた。 ベンチは当然ながらクッションが効いていない。木製だ。寝るには固い。 「美矢乃さま、体は痛くないですか?」 「ええ、大丈夫よ。食後に横になるのははしたないけれど、気持ちいいわね。こうして千香の顔を見上げていると、目を閉じるのがもったいないわ」 「……ここしばらく、ご無理をなさっていたのですから寝てください。美矢乃さまはご褒美とおっしゃいましたが、疲れはたまっているはずです。いくら吸血鬼が一般人より丈夫とはいえ……」 「あら、千香にそこまで思いやられては眠るしかなさそうね。まあいいわ、千香の香りとぬくもりでいい夢が見られそうよ」 美矢乃さまにしては素直に目を閉じる。豊かな睫毛が際立つ。美しいと思った。 魂の契りを交わしたら──こんな美矢乃さまを、もっと見ていられるようになるのだろうか? 「……明日、頑張りましょうね、美矢乃さま」 囁くと、美矢乃さまは目をうっすらと開いて慈愛に満ちた表情で「ええ、ふたりの未来を掴み取りましょう」と言ってくださった。 それから、予鈴が鳴るまで静かに時を過ごした。何て優しい時間だろう。美矢乃さまは私が知らなかったこと、忘れていたこと、願っていたことを叶えてくださる。 ──お母さんも、まだ優しかった頃に、こうして見守ってくれたな……。 美矢乃さまの健やかな寝息を聞きながら、ふと思い出した。切なくはならなかった。美矢乃さまがいるから。 けれど、これは嵐の前の静けさだった。 * * *
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