リンデンヴェール

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翌日、美矢乃さまと私は時間まで私の部屋ですごして、迎えの車を待った。 車は黒塗りの大きなものだった。柔らかいシートにテーブルと小さな冷蔵庫まである。いったい何千万するのだろう。美矢乃さまが名家のお嬢様だということを再確認した。こんな立派なお家柄の方と庶民の私が魂の契りを交わすと報告したら、お父様は反対されるのではないだろうか。もしかしたら、許嫁もいたのではないか。ありうる。 「千香、レモネードを飲む? 顔色が優れないわ、すっきりしたものを口になさい」 「あ、はい……ありがとうございます……けれど、緊張はもうどうしようもなくて……」 私はシートの上でがちがちにかしこまっている。美矢乃さまが気遣ってくださるのはありがたいけれど、まな板の上の鯉になるのは時間の問題だと思うと、胃のあたりに鉛を詰め込まれたようになる。 「大丈夫よ、千香。父は寛大な方なの。私が真剣であることが分かれば許してくださるわ。──それにね、千香? 言っておくけれど、私に許嫁はいないわよ?」 「……美矢乃さま、私の心を読めるのですか?」 「読めないけれど、顔に書いてあるわよ」 こんなときまで、余裕をもってくすくすと笑う。でもそれは、私に余計に緊張させないためだと分かる。美矢乃さまだって、人生の一大事の報告に緊張しないわけがないのだ。 私は美矢乃さまの思いやりに感謝して、レモネードを受け取った。微かな炭酸はペリエだろうか、喉がすっとする。爽やかな酸味に程よい甘さが緊張で渇ききった喉を潤す。ほっと息をつくと、見守っていた美矢乃さまが心をほぐした笑顔になった。 1時間ほど車を走らせて着いたのは、大きさが見渡せないほどの、趣のある平屋建ての日本家屋のお屋敷だった。門から玄関まで、さらに数分車を走らせる。 車だけでも驚いていた私にとっては、想像を絶していた。帝直系のお家柄という重みを思い知らされた。 「──さ、千香。手を」 運転手の方がドアを開け、美矢乃さまが先に降りる。そして手を差しのべてくださった。大丈夫ですとは言えない雰囲気だ。 「……はい」 美矢乃さまの手に自分の手を重ねる。エスコートされながら車を降りるなんて、もちろん初めての経験だ。 美矢乃さまは、さすがに手を繋いだまま玄関をくぐろうとはせずに、私が車を降りてしっかりと立つのを確認してから手を離した。 玄関の前には、燕尾服というのだろうか、よくは分からないけれど映画に出てくるような執事らしいひとが立って待っていた。 「お嬢様、旦那様がお待ちです。ご無事にお戻りになられてようございました。──和泉様、ようこそいらっしゃいました」 その声に、皮肉は微塵も感じられない。むしろ──何だろう、本気でかしこまっているような感じがある。 「あら、お父様は早かったのね。お待たせしてしまって申し訳ないわ」 「いえ、待つのも一興だとおおせでしたよ」 「お父様は相変わらずね。私に甘すぎるわ。まあ、そこも素敵なのだけれど──千香、入りましょう。これ、以上お父様をお待たせするのは申し訳ないわ」 「は、はいっ……」 美矢乃さまに続いて玄関に入り、靴を脱いで揃える。廊下は艶が出るほど磨きぬかれていた。 「旦那様は紅葉の間でお待ちです」 「分かったわ。千香、私についてきて」 「はい……」 とてつもなく長い廊下を歩く間、美矢乃さまとの会話はなかった。美矢乃さまの緊張が背中から窺える。歩きながら、お庭が見えた。手入れの行き届いた、見事なお庭だった。どうやら季節ごとの樹木が部屋に合わせて植えられているらしい。果樹もあった。 それにしても、私達の微かな足音しか聞こえない。静けさに重圧を感じて、背筋が伸びる。 やがて、美矢乃さまが立ち止まり、襖の前で正座した。私もそれにならって正座する。 「お父様、ただいま戻りました。美矢乃です」 「入りなさい」 戻ってきた声は若かった。張りのありながら温厚そうな声だった。 美矢乃さまが襖を開け、手をついて礼をしてから入る。和室は10畳くらいで、目的の人物はお庭を眺めていた。紅葉が風に揺れる。こけおどしが水を蓄えて鳴った。 美矢乃さまは畳の縁を踏まないように歩き、数歩離れたところに正座した。私も見よう見まねで歩き、美矢乃さまの傍らに正座する。そこで、美矢乃さまのお父様はこちらへ向き直った。 長い髪を後ろでひとつに束ねて、渋い藍色の着物を着ている。髪と瞳の色は美矢乃さまと同じだったけれど、奥行きが違う。あまりにも深くて、すべてを見透かされてしまいそうだ。 固唾を呑んで言葉を待っていると、お父様はふと表情をやわらげた。 「そんなに緊張することはない。和泉君、君のことは娘からよく聞かされていたよ」 「は、はい……」 「とても真面目で可愛くて、つれないと」 「…………」 一体何を話していらっしゃるのですか、美矢乃さま……。 「まあ、それはともかく……娘と魂の契りを交わそうという相手のことだ。すまないが、改めて身辺調査をさせてもらった」 悪いことはしていないつもりでも、そう言われると、ぎくりと固まる。お父様は強張った私を見て「安心しなさい」とおっしゃった。 「とても優秀で、施設にいた頃から懸命に学び、学園でも熱心に授業を受けて部活動にも励んでいるとのことだったよ。ただ……ふたりには、話しておかなければなるまい」 何か、重要な話があるらしい。最後の方でお父様の声が僅かに沈んだ。そこで、襖の向こうから先ほどの執事の方が「お茶をお持ちいたしました」と声をかけてきた。すっと襖が開き、礼をして、ほのかに甘い香りのするお茶が運ばれる。美矢乃さまから頂いた玉露と同じお茶だとすぐに分かった。 ──大切なお客様にお出しするお茶。 丁重に扱われていることに恐縮しながらも、もしかしたら認めてくださっているのではないかと希望を抱いてしまう。 だけど、続く言葉は衝撃以外のなにものでもなかった。 「和泉君、君から発する香りで分かる。君は、帝と初めて魂の契りを交わした純潔の乙女、『花の一族』の末裔だ。だから君の母君もダンピールに狙われたのだろう」 「え……?」 「そうでしたのね、お父様。だとしたら、千香はこのままでは危険ですわ。今は私が常に傍におりますけれど、限界もあるでしょう」 美矢乃さまが身を乗り出す。私はといえば、母のことまで知られているのか、花の一族の末裔とは、と思考が混乱していた。 「落ち着きなさい、美矢乃。並の吸血鬼ならばいざ知らず、相手が帝直系の吸血鬼ならばダンピールもおいそれと手出しはできまい。和泉君、もし君が娘と魂の契りを交わせば、君の安全は保障されるだろう」 「ならばお父様、お認めくださいますのでしょうか?」 そこで、刹那お父様の瞳に翳りが見えた。直感がざわめく。美矢乃さまは気づいていらっしゃらないのだろうか? いや、気づいているだろう。膝の上の手がぎゅっと握りしめられたのを見て悟った。 何かが、ある。私達にとって、よくない何かが。 「……まず、落ち着いて聞いて欲しい。和泉君、君は間違いなくダンピールだ。稀に、一般人としての特色を色濃く受け継ぎながらも、吸血鬼の持つ唾液を治癒能力を有するものが生まれることがある。そして、──美矢乃、お前もダンピールだ。私の血が強く出たために外見こそ吸血鬼そのものだが、唾液による治癒能力はない。それは、自分でもおかしいと薄々思ってきただろう。吸血欲求は……魂の契りを交わしていない今こそ抑えられているが、一度契りを交わせば……相手を治癒できない状態で満月の度に求めることになる」 「お母様が……一般人……?」 美矢乃さまが呆然と呟いた。私も、お父様とお会いするという話のなかでお母様の話題が出てこなかったことに今になって気づいた。 美矢乃さまのお父様が、目を伏せる。 「……そうだ。お前を産んだときに力を使い果たし、それからはずっと別荘で床に臥せている。すべては私の力が強すぎたためだ。お前には申し訳ないと思っている。だが、今はお前に治癒能力がないことが問題だ」 「──あの、治癒能力なら私が持っていれば問題ないのではないでしょうか?」 口を挟むと、お父様は真っ直ぐに私を見て話し出した。 「吸血鬼の牙による傷は、吸血した吸血鬼にしか癒せないのだ。自然治癒には次の満月までかかる。そして──次の満月ときには、吸血鬼は血を欲する」 これには、美矢乃さまも私も言葉を失った。 では、私達は魂の契りを交わせないことになるのか? 「そんな……お父様、何か方法はないのですか? 私はダンピールだとお父様はおっしゃいました。純粋な吸血鬼ではないなら、何か抜け道はないのでしょうか? お父様、すべてを話してくださいませ」 それは盲点だった。美矢乃さまは親子の絆で、お父様がまだすべてを話してはおられないと勘づいていらしたのか。 美矢乃さまが必死に食い下がると、お父様は明らかな苦悶を眼差しに籠めて美矢乃さまを見つめた。 沈黙のなか、こけおどしが響く。諫めるように。 お父様は美矢乃さまを見据え、じっと瞳の奥の決意を見定めておられるようだった。 「……ひとつだけ方法がある。我が子にだけは正直使いたくない。けれど、君達が真剣ならば方法だけは教えておく。成功率は低く、リスクも高い。それでも……」 「お教えくださいませ、お父様」 「私も、どうかお願いいたします」 美矢乃さまの声と私の声が重なった。実行するかはともかく、方法があるのなら絶対に知りたい。 ただ、言うと同時に後悔もした。リスクが高いとお父様はおっしゃった。そのリスクが美矢乃さまにかかるものならば──私には実行などできない。 果たして、お父様の説明は想像を絶するものだった。 「魂の契りを交わしたあと、……帝直系が我が家に伝わる純銀のナイフで、和泉君、君が娘の心臓を貫くんだ。これは難しい賭けになるが、うまくいけば美矢乃は一般人として生まれ変わることができるだろう。ただし、命こそ助かれども吸血鬼として生きてきた人格が殺され、生きながら人形のようになるおそれがある。いや、むしろその危険性の方が高いだろう。吸血鬼は吸血鬼の血の弾丸に撃ち抜かれなければ死なないが、心臓は吸血鬼にとって魂のようなものなのだ」 ──できない。 私には、そんな恐ろしいことはできない。 美矢乃さまの魂を殺す? それは美矢乃さまの今までのありようと未来を殺すことだ。 絶望する私の傍らで、黙って聞いていた美矢乃さまが凛とした声を上げた。 「お父様、私は万にひとつの可能性に賭けます。たとえば成功したとして──その蜘蛛の糸に私はしがみつきます。そこにこそ望む未来があるのです。他には何をも望みません」
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