リンデンヴェール

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「美矢乃さま!」 私は抗議の声を上げずにいられなかった。 「美矢乃さまは、私を愛してくださる美矢乃さまを私に失わせるおつもりですか?!」 「いいえ……いいえ、違うのよ、千香。私は共に手を取り合い生きることを望んでいるの。そのためには必要なことなのよ。分かってちょうだい、千香……」 「けれど、お聞きになられたでしょう? 成功率は低いと。リスクが高いと。このまま、魂の契りを交わさずとも一緒にいられればいいのではありませんか?」 私が言い募ると、美矢乃さまは苦悶の表情を浮かべて言葉を振り絞った。断崖に立たされ、背後には仇敵がいるような、ぎりぎりの叫びを、弱々しいお声で。 「聞き分けてちょうだい、千香……私はあなたの血が欲しくなってきているの。このままでは、あなたに癒えない傷を負わせたまま、あなたを貪り続けてしまうかもしれない……それだけは耐えられないの」 きっとそれは、吸血鬼として生まれ落ちたものの業なのだろう。決して避けて通れない道。 私はそれを悟らざるを得なかった。そのうえで、覚悟を決めた。──愛しているから。 「美矢乃さま、私の血が欲しいのであれば、いくらでも差し上げます。傷は少しずつ治ってゆくのです。一番辛い状態が続くのではないのです。よくなってゆくのです。私は大丈夫です」 美矢乃さまは激しく反駁した。 「駄目よ、千香……! そのような悲しい切ないことを言わないで。あなたに負担などかけたくないのよ。あなたに傷など負わせたくないの。守りたいのよ、あなたを」 「私こそ、美矢乃さまに負担などかけたくないのです。私は守られるだけの弱い私などいらない──」 「千香……やめて……!」 「──そこまでにしなさい、ふたりとも。今日は既にふたりの寮に外泊の許可をとってある。とりあえず今は頭を冷やして、今後については後でじっくりと話し合いなさい」 堂々巡りに陥ったとき、美矢乃さまのお父様が半ば強引に話を打ち切った。 「ふたりとも、しっかりと食事をとって、風呂で心にゆとりを持てるように休みなさい。話し合いはそのあとだ。いいね?」 私達は頷くしかなかった。美矢乃さまのお父様がおっしゃることは道理にかなっている。互いに、冷静さを欠いていた。 美矢乃さまが、深いため息をつく。 「……では、千香。今夜は私の部屋で話し合いましょう」 「……はい。すみませんでした、私……むきになって」 「いいのよ、私もだわ」 「……美矢乃の部屋で?」 ぽつりと、場違いな低い声が挟まった。美矢乃さまのお父様だ。 「それは、ひとつベッドのなかでということか? 美矢乃」 「ええ、そのつもりですけど」 「え、美矢乃さま、お布団を別に敷いてくださるのでは……」 やはり、美矢乃さまは美矢乃さまだ。こういう場面でさえ、キャラクターはブレない。しれっとして「それでは声が遠いわ」と言い返してくださった。 「待て、待て美矢乃。お父さんは未婚の婦女子と同じベッドを共にするなど許さんぞ」 「いかがわしい行為などしないのですから、問題ないでしょう、お父様」 「いや、ひとつベッドという時点でいかがわしい」 「まあ、お父様。私、千香とは清い関係ですのよ。──くちづけはいたしましたけれど」 「くちづけは……した……?」 美矢乃さまのお父様のこめかみがぴくりと反応する。 ああ、この子にしてこの親ありなのか……。 「美矢乃さま、これ以上口を開かないでください。……頭痛がしてきそうです」 「まあ、頭痛ですって? よくないわ千香、今夜は話し合いはやめましょう。代わりに看病を……」 「いや、看病なら医師を呼ぶ。美矢乃、お前は絶対にべたりとして余計に疲れさせる。ここはお父さんに任せるんだ。ひとつベッドは決して認めん」 「お父様は単に娘離れができていないのではなくて? 私はもう16歳の満月をとうに過ぎていてよ?」 「いや、親にとって子は生涯子だ。認めんものは認めん」 子が親を慕い、親が子を溺愛しているのは伝わってきたけれど、このままでは私の精神衛生上よろしくない。ほんの1分前までの張り詰めた空気はどこに行ったのか。 「──旦那様、お食事のご用意ができましてございます」 襖の向こうからの声に、救われた。わりと本気で。 美矢乃さまはお父様を散々からかっておきながら最後には放って、私に微笑みかけてきた。 「さ、千香。とりあえずお夕飯を頂いて英気を養いましょう。お腹がすいているのではなくて?」 お腹は確かに、こんなときでも健康的にすいてしまっていたけれど、答えにくいことこの上なかった……。 * * * 結局、折衷案として美矢乃さまのお部屋にお布団を敷いて頂くことになった。お布団とベッドの間が境界線だ。そこを越えることは決して許さんと、美矢乃さまのお父様は「くどいわ、お父様」と美矢乃さまに言われても言い続けていた。もっとも、美矢乃さまは、ひとつベッドのなかで共に、という目論見が外れてご機嫌斜めだったせいもあるけれど。 懐石料理のようなお夕飯を頂いて、檜のお風呂をお借りして、お腹が満たされて体がさっぱりすると、我ながら意固地になっていたと反省する気持ちの余裕が生まれた。 美矢乃さまも同じらしい。悲痛さは消えて、穏やかになっていらっしゃるのを見て、少し安心した。 「──美矢乃さま、お話ですけれど……」 「私も今、話しかけようとしていたところよ。……ねえ、千香。私のお願いを聞いてはくれるかしら?」 美矢乃さまの表情は穏やかで──穏やかすぎて、先を聞くのが怖くなってくる。私が思っていた穏やかさと何かが違う。 「……内容によります」 「──私と、魂の契りを交わしてちょうだい。今、これから」 「……それは……私のお願いを聞き入れてくださるということですか?」 「もちろん、あなたの血は欲しいわ。最初で最後、味わっておきたい」 最初で、最後──それは、つまり。 「……私に、美矢乃さまを刺せと?」 ここでも沈黙は雄弁だった。 美矢乃さまは欠片の感情も窺わせない表情で私を見ている。一見穏やかに見えるそれは、嵐を孕んだ激情だ。巻き込まれたら、奔流に呑み込まれ私は溺死してしまう。私の感情は。 「千香……あなたを守るためなら何だってするわ。もしここで契れなかったら、私達は離れ離れになってしまう。そうしたら、千香、あなたは……」 吸血鬼とダンピールに狙われる日々を過ごすこととなる。 脳裡で、特別閲覧室のなかダンピールに襲われたときの記憶が蘇る。けれど──。 「……守られるだけの弱い私は、と言ったではありませんか。……私は美矢乃さまをお支えしたいのに……もう何も失ないたくないのに」 母のときのように。 今度こそはと思った。信じようと決意した。 なのに、美矢乃さまは失なわせようとしている。涙と嗚咽がこぼれてきた。 「千香……泣かないでとは言えないわ。せめて、そちらに行かせて。あなたの涙を拭わせてちょうだい」 ぎし、とベッドのスプリングが軋む。美矢乃さまが身を起こしたのが夜の闇のなかでも影となって見えた。 「……ですけれど、ひとつベッドは……」 「ひとつ布団は駄目だとは言われていないわ。さ、少し端に寄ってちょうだい。このままでは私が入れない」 「……それを世間では屁理屈というのですよ……」 いつも通りに突っ込みを入れようとしても、涙でうまくいかない。美矢乃さまはするりと迷いなく私の隣に身を横たえた。 体温が近い。それは命の近さだ。このぬくもりを失なわずに済むのなら、私は何に狙われても構わない。けれど実際は、美矢乃さまに守られて平穏を得てきただけだったのだ。──帝直系の姫のお相手だから、と。 「……美矢乃さま、美矢乃さまは成功すると思っていらっしゃいますか?」 「──ええ。私達の想いが本物で真実ならば、必ず成功するわ」 少しだけ、身を美矢乃さまにすり寄せる。美矢乃さまがこちらを向いて、私の頭を抱いてくださった。美矢乃さまの鼓動が早いのが伝わる。そうだ、美矢乃さまだって恐れていないわけがないのだ。それでも、唯一の道を通ろうとしている。──ふたりの未来の地図を作ろうと。 「……美矢乃さま。血、を……私にお与えくださいますか……?」 「千香……!」 美矢乃さまが起き上がり、私のことも抱いて起こさせる。先ほどまでの穏やかさが嘘のように、泣きそうな顔をしていらっしゃる。 「美矢乃さまの願いは、いつか私の願いともなるでしょう? もし叶わなければ、私は同じナイフであなたのもとへいきます」 「千香……! 千香、あなた……!」 「共に、未来を探しに行きましょう?」 泣いたばかりの顔では格好がつかないけれど、それでも私は微笑んだ。美矢乃さまはそんな私を見て、狂おしく抱きしめてきた。 もう息が詰まっても構わない。痛いほど締め上げられても構わない。私は美矢乃さまのものだ。そして、美矢乃さまは私のものだ。 「……さ、美矢乃さま。血を」 「……ええ」 体が離れて、うす寒さを感じる。前にも下校時に腕が離れたときに感じたけれど、その比ではない。次元が違う。状況が違う。 美矢乃さまはデスクからカッターナイフを取り出し、私に座るように促した。──美矢乃さまが座る、その上に。 いつものように抵抗しようかと思い、やめる。これは冗談ではないのだ。神聖な儀式だ。 後ろから私を抱きしめた美矢乃さまは、右手に持ったカッターナイフで左腕を切った。迷いなく──迷いを断ち切るために思いきり切ったのだろう、すぐに血が溢れて流れ出した。 私は促されることも待たずに傷口に舌を這わせた。美矢乃さまの命の味。なんて甘美だろう。 くらくらするほどの、舌からの情報伝達。 美矢乃さまのなかに流れていた命の滴が、喉から全身に巡り沁み込んでゆく。 細胞ひとつひとつにまで溶け込み、私を変える。 私はそれに痺れ、酔いしれ、血の甘さに満たされずにはいられなかった。幼い頃に飲んだそれより遥かに甘いのは、美矢乃さまの愛情があればこそだろう。 ──ああ、もうこのひとに命を捧げてもいい。 望まれないことさえ誓いそうになる酩酊。 私は確かに悲しみ苦しみを恐れる私を失ない、脈動する私を得たのだ。 ──美矢乃さまを失なわせはしない。 私は美矢乃さまの腕のなかで、そう決意した。 「千香……あなたの血も、ちょうだい……」 掠れた声に、はっとして窓を見上げる。──満ちきった月が、私達をそそのかしている。 「……はい、美矢乃さま。思う存分飲んでください」 ふたりきりの秘め事は、『いかがわしい』どころの話ではない。 けれど、潔白の行為だ。 私達は求め合っている。手順を踏んで。 「ごめんなさいね、ごめんなさい……千香」 謝らないでください。──その一言は、喉に立てられた牙の鋭さに呑み込まれた。 ぶつ、と音が感じられる。同時に、流れに逆らって血が吸い上げられてゆく感覚に襲われた。全身の血が逆流する。喉にだけ向かって、もっともっとと美矢乃さまへ捧げられる。 それこそが至福だと。 泥酔したような、体がうまく動かない状態で、私はかろうじて美矢乃さまの手を握った。すぐに美矢乃さまが指を絡めて握り返してくださる。 このときまで、私は吸血鬼と魂の契りを交わす一般人の気持ちが分かっていなかったのだ。溺れそうな快感を理性で押し留めようとしても、理性が拒絶する。身を任せろと。 「……は、あっ……美、矢乃……さま……」 「……なんて愛おしい声なの、千香……あなたの血はとろける蜜のようね。私を甘く酔わせて、頭の芯を痺れさせるわ……けれど、このあたりでやめないとね。千香を吸い尽くしてしまうわ。体の具合はどう? 貧血などはない? 何なら輸血を……」 「……大丈夫、です……美矢乃さま、世の一般人は成人したら皆、吸血されているんですよ? その自然な行為で輸血って何ですか」 「あら……よかった、いつもの千香だわ……よかった……!」 傷口はじくじくと痛むし、僅かに目眩がするけれど、激しい運動をしなければ大丈夫そうだ。 私は向き直り、美矢乃さまに正面から抱きついた。身をもたれかけさせる。美矢乃さまは慈しむ腕と手で受けとめてくださった。 「……今夜は一緒に寝ましょう? 千香が嫌ならくちづけもしないわ。ただ、こうして横になるだけよ。……駄目かしら?」 ……何だか、いつかした『お願い』の仕返しをされた気分だ。でも、腹立たしくはない。むしろ、私もこうしていたい。私によって満たされた美矢乃さまが、あまりにも美しくて温かくて幸せそうな様子を見せていらっしゃるから。 「……今夜は、特別ですからね?」 私がこんな生意気を言えるのは、世界中で美矢乃さまだけだ。すべてを受け容れてくださるから。 * * *
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