リンデンヴェール

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翌朝、お屋敷のなかは蜂の巣をつついたような騒ぎになった。 何しろ、ご当主の愛娘が父の了承も得ずに魂の契りを交わしてしまったのだから。 ただひとつの救いは、私が『花の一族』の末裔であったことだ。『花の一族』は、聞いてみると吸血鬼との相性が抜群らしく、社会の表舞台にこそ出てこないものの、今まで数多の高位吸血鬼を支えてきたらしい。 「ひとつ布団……客間にお通しするべきだったか?……いや、美矢乃が夜這いしたら……」 美矢乃さまのお父様は、発覚してからずっと本題から微妙に逸れた独白をもらしていらっしゃる。どうやら、魂の契りを交わされたことより誰かと布団を共にして眠ったことがショックらしい。念のため言っておくが、性行は断じてない。ないと言ったらない。 そして当事者の美矢乃さまは、「昨夜が満月でちょうどよかったわ。あまり先延ばしにはできないもの」と涼しい顔をしていらっしゃる。私の傷は、とりあえず宮牙家の主治医の先生に手当てして頂いた。完治するには次の満月までかかるけれど、止血はできたのであまり気にしていない。 問題は朝食だ。「足りない血を補わなくては」と、朝からビュッフェ形式で親子ふたりから次々とお料理を目の前に並べられている。デザートだけでも8種類だ。 お料理はとても美味しそうだし、空腹感もあるにはあるけれど、ここまでくると見るだけで胸焼けする。 「あら、千香、駄目よ、しっかり食べなくては。千香にはこの後大仕事があるのですもの」 私の隣に陣取って一足先に朝食を終え、紅茶を飲んでいる美矢乃さまが、さらにお料理を追加するようシェフの方に申しつける。 「もう、勘弁してください……大食いアイドルでもこんなに食べませんよ……って、……大仕事って……」 美矢乃さまの勢いに、かろうじて突っ込みだけは入れたものの……思いつく仕事はひとつだけだ。率直に言えば、今でも恐ろしい。 美矢乃さまは私の気持ち、恐怖に気づいていらっしゃるのだろう。そのうえで、高らかに言ってのける。 「今日が日曜日でよかったわ。場所は私達の出逢いの場所ね。よくって?」 「……でも、あの、急展開すぎて……」 心が追いつきませんと言い訳しようとしたところで、美矢乃さまは珍しく厳しい顔をされた。迫力に気圧されてしまう。 「こういうことはね、善は急げというのよ、千香。白黒はっきりつけようではないの。大丈夫よ、私の体のなかには千香の血が巡っているわ。気力に溢れて今なら何でもできそうなの。──ほら、こちらもお食べなさい。どうも気力が足りないようだわ。滋養に富んだものをもっと用意させましょうか?」 私は頭を抱えたくなった。腹をくくるしか、食事攻めから逃れる方法はないらしい……。 「……和泉君、諦めなさい。今はしっかり栄養を摂るのが仕事だ。……できれば避けたい道だったが、こうなっては仕方あるまい。娘が万一脱け殻になっても私達夫婦は愛しぬこう。必ず最期まで慈しむ。君にはその覚悟がないわけではあるまい?……いや、愚問だな。すまない。私も所詮はただの親だ。衝撃を受けていないと言えば嘘になる。だが……娘を信じるしかないんだ」 「……はい」 一言しか答えられずにいると、おもむろに頭を下げられた。うろたえる私にお構いなく、頭を下げたまま心底の願いを言われる。 「娘を頼む。この世に繋ぎとめてやって欲しい。まだ、娘は生きる喜びを十分には味わっていない。共に生きる喜びを」 「あ、頭をお上げください……私、何としてでも美矢乃さまを失ないません。努力します。努力してもどうしようもならないことは、力ずくでも何とかします。やっと、確かな絆を結べたばかりなのですから。……神様にも悪魔にも奪わせません」 少し大袈裟だっただろうか。言いすぎただろうか。心配になっていると、顔を上げてくださった『親』の表情は、どんなお守りよりも頼もしい愛情に満ちていた。 朝食を終えて、少し休んでから、美矢乃さまと共に黒塗りの車によって森林公園まで赴いた。 まだ、菩提樹は残されていた。大きい。背が伸びた今でさえ大きく感じるのは、その木がもつ生命力によるのだろう。 美矢乃さまが記憶を辿る。 「私は一度、ここで死の淵に立った……千香、あなたが救い出してくれたわ。そして今、ここでまた同じ魂に命を吹き込むのよ。信じましょう、千香。私達は共に生きる未来があるのよ。……ねえ、千香。もし生まれ変われたのならば、千香と同じ魂になれるのよ」 「……はい!」 「──では、お嬢様、こちらを」 昨日の執事らしきひととは違う、着物を着た初老の男性が木箱をうやうやしく差し出す。中身は見なくとも分かる。 「ええ、ありがとう。お前はもうお下がり」 「はい、かしこまりました。……ご武運を」 美矢乃さまは箱を開け、まばたきもせずにナイフの柄の先のほうを握って日光に掲げた。手入れの行き届いた刃は鋭い輝きをはなっている。私は、せり上がりそうな心の悲鳴を呑みこんだ。 「さあ、千香……」 「……はい……」 美矢乃さまからナイフを受け取る。重い。両手で持って、固く目を閉じた。 やらなければ。やらなければ未来はない。やっても美矢乃さまには未来がないかもしれない。脱け殻の美矢乃さまを愛する自分。悔やみながら愛する自分。──駄目だ、違う、そうではなくて。生み出すしかないのだ。 ふたり、手を繋いで一緒に歩ける未来を。 「ほら、……ここよ」 ためらう私の手を取り、美矢乃さまが切っ先をご自分の左胸にあてられる。 私はといえば、その微かな感触、切っ先が美矢乃さまに触れた感触にさえも、がくがくと震えてしまって、ナイフの柄を強く握りしめることで、かろうじて押さえていた。 「やっぱり、私、こんなこと……」 「駄目よ、信じなさい。私を信じるのよ、千香。そしてやり遂げる自分を信じなさい」 一迅の風が吹く。美矢乃さまが、あいている手で私を引き寄せ、私は美矢乃さまを押し倒すかたちで倒れこんだ。 美矢乃さまの胸には、その力で、純銀のナイフが──。 「い、いや……いやあっ……!」 ふたり寄り添っていた昨日までが、血の気と共に引いて遠ざかってゆくようで、私は覆い被さり夢中になって美矢乃さまの胸の傷を舐めた。傷はなぜか塞がらない。広がる真紅。 ──お願い、お願い、お願いだから再び蜜色の瞳に私を映して。 失なうのは、こんなにも怖い。 叫び叫んで美矢乃さまを揺さぶり起こしたい。呼びかけたい。名を呼んで向こう側から取り返したい。それらをすることさえ惜しんで傷を舐め続ける。 けれど、もし傷が塞がったとして、美矢乃さまを失なった美矢乃さまなんて──悲しすぎる。 私に愛を教えてくださった美矢乃さまこそ真実の美矢乃さまだ。 私から美矢乃さまを奪わないで。 私は初めて天に祈った。 とめどなく涙をふりこぼし、深すぎる傷を舐め続け──嗚咽が漏れた瞬間、私の涙が美矢乃さまの傷へと吸い込まれていった。ひとしずく、ふたしずく──。 そして、──奇跡が起きたかのように涙で傷が消えた。みるみるうちに、しぼんで消えたのだ。 「美矢乃さま……! 美矢乃さま、千香です! あなたの、あなただけの千香です!」 青白く閉ざされた瞼を食い入るように見つめながら、ひたすらに呼びかける。 ──すると、僅かに瞼が反応してくれた。 美矢乃さまの冷たい手を取って自分の胸に押しあて、何度も何度も繰り返し「美矢乃さま!」と呼ぶ。 美矢乃さまの瞼は、ゆっくりと重そうに開き──とろりとした、極上の蜜色の瞳が私を映した。 美矢乃さまが深く息を吸い、吐き出す。数回の緩慢なまばたき。 「……ち、か……」 ──そして、甘い甘い蜜そのものの眼差しで、私を見つめ返してきてくださったのだ。 ああ、神様。 私は喜びで満たされました。 もう、鎧のようにまとっていた過去の痛みすべてを脱ぎ捨て、まっさらな心で美矢乃さまを求めます。 美矢乃さまとの未来を。 「……千香……なぜ、泣いているの……」 まだ体は動かせそうにない美矢乃さまが、うまく呂律のまわらないなかで問いかけてくる。 私は、その美矢乃さまに覆い被さって、一度は冷えきった体にぬくもりを分けるようにしがみついた。 「……幸せだからです……愛しています、美矢乃さま……」 私をよ、と耳元で聞こえた。掠れた声は低く、そして消え入りそうでありながら決して消えない炎を宿らせていた。 私は不意に美矢乃さまと演じたリンデンとヴェールを思い出した。この菩提樹の影に包まれて、ふたりきり、あのふたりが得られなかった未来を手にする。──それは、報われることなく果てる運命の全てに未来という希望をもたらすものだ。私達は、確かに結ばれないはずの運命を塗り替え、優しく逞しい季節の訪れのような希望を得て、未来を切り拓いたのだ。 ──不意に美矢乃さまが咳き込む。慌てて体を離すと、美矢乃さまは顔を横に向けて何かを吐き出した。 それは、純白の牙だった。 「……なれたのね、私達……」 同じ魂に。ふたつの体で、ひとつの命に。 胸のなかの花が咲く。 長い長い永い夜の暗闇と、凍える冷気のなかで閉ざされていた花が、希望という朝日を受けて開いてゆく。 花弁に朝露をまといながら咲く花の色は、今、こんなにも幸せの色──。 * * * あの日から半月ほど、美矢乃さまはご実家で静養された。一度は死んだも同然の体だ。自由に動かせるようになるまで半月という時間を要した。 私は、特待生としての成果を出す必要があったため、最初の3日間ほど美矢乃さまのお世話をして、後ろ髪引かれる思いで寮に戻った。美矢乃さまに「私は大丈夫だから、学問に励みなさい。私の看病で千香が積み上げてきたものが損なわれるなんて悲しいわ」と言われてしまったのだ。帰らないわけにはいかない。強引に残ることはできたのだろうけど、美矢乃さまが心苦しく思ってしまうと分かっていたので、従うことにした。 そして、美矢乃さまといえば、身体能力は吸血鬼の頃とまったく変わらなかった。外見もだ。 だから、偽物の牙を着けて今でも吸血鬼コースに在籍している。そして、部活動でも相変わらず女役トップとして活躍していらっしゃる。 私も、美矢乃さまの唯一の相手として男役のトップを務めている。 「……ああ、あなたの血はまろやかな源泉のようだ……ぬくもりが全身を巡る……いっそ飲み干してしまいたい」 美矢乃さまの首筋から口を離し、顔が触れ合いそうな距離で熱い眼差しを交わす。美矢乃さまは儚く強く見つめ返してきた。 「飲み干してくださいませ……あなたのなかで息づいていられるならば、私は幸せなのです……」 「──いいえ、いけません……! 私はあなたという存在を知って、救いを得ました。共に……この世の終わりまで、共に」 「私と共に永劫の時を生きてくださるの?」 「ええ、あなたとさえいられれば……私はもう孤独ではない。愛しているのです、あなたを……」 そして、美矢乃さまがくちづける。真似のはずなのに。 「──ちょっ、美矢乃さま!」 「こらーっ! 宮牙さん! 公私混同はやめなさい!」 顧問の怒りの声が飛ぶ。美矢乃さまはしれっとして「あら、文化祭のときはあんなに好評だったではありませんか。あの歓声と拍手……あの快感を味わえるなら……」 「美矢乃さま!」 前途多難だ。美矢乃さまのスキンシップは、明らかに激増してしまった。 でも、本気で怒る気はしない。 だって、美矢乃さまが温かい。命を共有して初めて、美矢乃さまの心の声が聞こえるようになった。 私が恋しいと。愛していると。常に。 ならば、いいかと思ってしまいがちな自分の甘さには呆れるけれど、幸せをふたりで築いてゆけるのならば、それでいいかと思う。 「──じゃあ、シーン67、もう一度!」 顧問が指示して、練習が再開される。 私達のファンクラブの方々の熱い眼差しを受けながら、私は再び台詞を語り出した。 ──どこまでも、美矢乃さまと演じていたい。 その希望は、進路指導の担任も兼ねている演劇部顧問に伝えた。美矢乃さまも同じ考えだと聞かされて、私は美矢乃さまと大手の劇団のオーディションを受けて合格し、それぞれ高等部卒業後に入団することになった。そのあとは、大学に通いながら劇団で活動する。 ──今までも、これからも。 美矢乃さまとふたりなら、どんな困難も乗り越えられると迷いなく信じている。 ふたりの人生は、始まったばかりだ。 これから、意見の食い違いの起こることもあるだろう。 でも、その度にふたりで話し合って決めればいい。 「ああ、私は今まで愛を知らなかった……餌食にしてきた人間は数知れない。なのに今……あなたを失なうことが、こんなにも恐ろしい……」 私は美矢乃さまを抱き締めた。 この心地よさは、誰にも邪魔させない。 「私も、あなたを愛しているわ……この闇のなか、あなただけは鮮明に映る。あなただけよ……」 純潔の乙女を演じる美矢乃さまの神々しさ。私は美矢乃さまの頬にくちづけて仕返しした。 ──この時、まだ私達は知らなかった。気づけてはいなかった。 吸血鬼としての魂を失いながらも輝ける魂をもった美矢乃さまに──美矢乃さまと私を引き裂こうとする、美矢乃さまを虎視眈々と狙う存在が潜んでいることに。 気づけずにいる私達は、ただ共に生きられる喜びを味わい、幸せにひたっていたのだ。 ──そうして、黒より冥い闇が押し寄せるのは、そう遠い未来ではなかったのだった──。
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