リンデンヴェール

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 彼女達の言うことは──痩せぎすだったのは本当のことだ。高等部に進学して、寮の食事で一気に成長した。 何しろ寮や学食では、栄養管理士とリストランテでのシェフ経験を持つ調理師がタッグを組んで、美味しくて栄養のある食事を毎日作ってくれるのだ。授業終了後には、専属パティシエが腕をふるってティータイムまで用意してくれる。至れり尽くせりとはこのことだ。 施設では、私は自分を捨てられたお荷物として異分子のように自覚していて、ただひたすら萎縮する心には食事の味も分からず胃袋まで締めつけられて──この学園に、自分の全てを奮い立たせて奨学生として入学出来るまでの間、ろくに食べられず残してばかりいた頃とは、心が味わう美味しさが比べものにならない。 それはひとつの解放であり成長とも言えるだろう。お蔭で私の身長は伸びて、顔色も肌の張りも見違えるようになった。 だが、彼女達にはもう少し遠慮というものを考えて欲しい。そんなささやかな願いは、続く一言に一蹴された。 「聞こえても構わない声で話しているのよ。火に油をそそぐのは楽しいじゃない」 「もう……まあ、私も楽しんでいるけれど」  私は聞こえてきたやり取りに、思わず膝をついてうなだれた。共感とまでは言わない、せめて同情が欲しい。 何しろ美矢乃さまは何かと私に魂の契りを求めてくるのだ。私より一足先に高等部へ進学されたあと、美矢乃さまは5月で16歳の満月を迎えられた。それ以降、顔を合わせれば血を飲ませようとする。言っておくが、演劇部の部活動は祝日を除いて毎日ある。そう、毎日だ。しかも中等部と高等部は合同で練習に励む。これでは避けようがない。 魂の契りを交わせば、生涯の伴侶同然となる。自然と恋人関係に発展し、男女の組み合わせならば結婚するのが一般的だ。 恋人となれば、言いにくいけれど、つまりはそういう『行為』が伴うわけで、正直私はそれが怖い。先述したトラウマのせいだ。  思い出すのもおぞましいが、記憶は勝手に時を選ばずフラッシュバックする。  あれは、小学校の2年生の頃のことだった。近所のデパートの本屋で本を見ていたら、背後に歳をとった男性が立ち、私の背中に体を押しつけてきた。生臭く荒い息遣いで、しきりに何かを押しつけてくる。私は怖くなって夢中で本屋からおもちゃ売り場まで逃げた。  あれは何だったのか。──考えていたら、また同じ男が背後に立ち、押しつけてきた。追いかけてきたのだ。ぞっとして、私はデパートから走り去り、家へと駆け込もうとして、──母の顔が浮かんだ。  母に、怖かったと話したかった。けれど、母の反応を想像して、私は何もなかったかのように「ただいま」と言って洗い物のたまった流し台に向かった。  痴漢されたんだ、と理解して、同時になぜか、男と付き合うようになってから冷酷になってしまった母に「汚れた娘」と思われそうで怖かった。「汚された汚ない娘」と思われるのが怖かった。  しかし、受難はそれだけでは終わらなかった。 痴漢に遭ってから数日後、寝ていたら唇に何かが触れる感触で目が醒めた。 目の前に、母の男のいやらしい笑みを浮かべた顔があった。まだ幼かったけれど、キスされたのだと瞬時に分かって「いやっ!」と叫んで飛び起きた。逃げたかった。 隣で見ていた母は笑いながら「消毒してあげるよ」と手を伸ばしてきたけれど、嫌だ嫌だ嫌だと心の叫びが爆発して、部屋の隅にうずくまった。男はそのさまを見て鼻白んだ表情をしたけれど、ただただ嫌だった。気持ち悪かった。悔しかった。 そのときの嫌悪感は歳月を重ねて肥大する。──未熟すぎた幼い心に刻まれた恐怖と嫌悪感。それはあらゆる性的なものを生理的に拒絶させるようになる。土足で踏みにじられた心の傷は恐怖と嫌悪感が化膿させ、私は自らを癒しようもなく萎縮して、ひとと触れ合うことを忌避するようになった。 たかが痴漢とキス程度でと思われるかもしれない。けれど違う。性的虐待は被害者に深い傷痕を残し、癒されることなく膿を出し続ける。 背中に何か押しつけられた感触、唇の感触が甦る度に胸に重苦しい鉛が詰め込まれる。泣きたいのに悔しくて泣けない。気持ち悪くて動けなくなる。いつしか、映画やテレビドラマや漫画のラブシーンさえ嫌悪感に襲われて受け付けなくなった。 だけど、演劇で自分ではない人生を演じるときだけは和らいだ。舞台上の恋に夢中になれたのだ。 そのなかで、気づいた。 私は、傷痕を隠して晒すこともできず膿を出し続ける今を変えたかった。 あのときの恐怖を悔しさを晒して、受け容れてくれる無償の恋という愛という綺麗な水で洗い、手当てをしてくれる誰かを求めていた。膿を出し切り、癒したかった。怯える子供の自分を変えたかった。 だけど、なかなか思うようにはならない。 美矢乃さまのことは、ずっと相手役をしてきたなかで親しみと畏敬を感じるようになっているけれど、美矢乃さまが私に何を求めているのかが分からない。分からないまま迫られても困る。一生に一度きりの魂の契りならば、なおのことだ。 こんな過去があるから、踏み出す怖さもある。まだ私は、舞台の上──失敗が叱責で許される練習中では、先ほどのように逃げてしまう。嫌悪感に襲われて、身動きがとれなくなる。 このままでは、いけない。 分かっているのに、求められるのが怖い。 ……自分から求めたくなれば、変わることができるのだろうか? 思索にふけっていると、背後ではまだお喋りが続いていたらしく、声が聞こえてきた。 「でも、宮牙さまのお申し出を断るなんて惜しいわね。帝直系の素晴らしいお家柄なのに」 「それは……そうよね。宮牙さまももう17歳でしょう? 吸血衝動は溜まっているはずだわ。なぜ押し倒してでも魂の契りを交わさないのかしら」 駄目だ、めまいがしてきた。過激な発言にというより、それを聞いて本当にそのうち押し倒されるのではないかと思えてきてしまったのだ。 「あなたも言うわねえ……まあ、私は部活でお美しい宮牙さまと凛々しい千香さんを拝めれば満足だけれども。でも、宮牙さまが千香さんに迫ってらっしゃるのは本気なのかしら? 千香さんは特別お家柄がいいわけでもないし……」 「あら、高貴な方にしか分からない魅力があるのではなくて?」 「そうよ、だから私達吸血鬼コースには千香さんのファンクラブまであるのですもの」 そうなのだ、私のファンクラブは全員が吸血鬼コースの生徒で構成されている。私自信に自覚はないが、何やら『いい香り』がするらしい。加えて美矢乃さまの演劇でのパートナーだ。目立たないわけにはいかない。 「中等部のときから男役のトップですものね。あの少し低めのお声で口説かれてみたいわ」 「つかの間の花火のようにね」 「……本当に言うわねえ……」 理解できない。耳栓があれば着けたくなってきたところで、顧問が声を張り上げた。 「──はい、再開! シーン冒頭から通しで!」  * * *
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