リンデンヴェール

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「……思い出しました。でも、あんな幼い頃の口約束を、なぜ……美矢乃さまには何のメリットもないでしょう?」 「メリットですって? 馬鹿なことを言わないでちょうだい。私は千香に一目で惹かれたの。あのときのお話しを憶えているでしょう? 私は千香の存在そのものが大好きなのよ。千香と再会できたとき、どんなに嬉しかったか……あのあと、私に迎えが来てから別れたけれど、父に探してもらったら養護施設に入れられているっていうのだもの。それから、千香がこの学院に入れるように父から施設に話を通してもらったのよ。なのに千香ったら、勉強に必要なものは受け取ってくれるけど、経済援助は断るのだもの。自力で受験するって……まあ、千香なら合格するって信じて待っていたわよ? でも、せっかく入学したのに演劇部に来ないし……」 「それは、定期試験の成果が必要ですし……部活動って気分にもなれませんでしたし……」 「でも、演劇部に入ってよかったでしょう? ごまかしはきかないわよ、千香。あなた、演劇が好きでしょう?」 もしかしたら、クラスの担任が私に歌劇を見せてくれたのには美矢乃さまからの働きかけがあったのかもしれないと、ちらりと思う。でも、憤りはわかなかった。演劇に出逢えたことに感謝こそすれ、導いてくれたのなら怒る理由はない。 でも、答えずにいると、美矢乃さまが少しだけ手に力を籠めて手先に目線を落とした。 「千香が演劇部に来てから、ずっと見てきたわ。千香の演技は救いを求める演技ね。演じることに救いを求める、修道者の巡礼の旅」 私は目を見張った。見抜かれていた──それくらい、美矢乃さまは私を見ていたのか。 ぎくりとするような、心臓を鷲掴みにされるような、なぜか少しだけ嬉しいような、何とも落ち着かない感情に私が黙りこむと、美矢乃さまは明るく口調を変えた。 「まあ、重い話はここまでにしましょう。そういえば千香、救護班の人ったらひどいのよ、今度同じことをやったら唇に液体絆創膏を塗りたくるって脅すの」 「……それは、救護班の人の英断だと思います」 恩人だと知っても、急には態度を変えてもいいものか迷い、私は普段通りを装った。幸い、美矢乃さまは大袈裟に悲しそうな顔を作って乗ってくれた。 「まあ、ひどいわ。同情してはくれないの?」 「同情の余地はありません。本番でやる気なら、私は液体絆創膏を隠し持って臨みます」 * * * 美矢乃さまに大好きだと告げられてから──。 美矢乃さまは、何かと私に「好きよ」と言うようになった。 声が好きよ、歌が好きよ、必死に演じる姿が好きよ、私の腕を振りほどかない千香が好きよ、私への眼差しが柔らかくなってきた千香が大好きよ──。 あまりにもストレートでいて自然に言ってくるので、その度に私の胸はざわついた。 だって、眼差しが柔らかくなるのは仕方ないではないか。幼い頃、私の涙を拭ってくれて、絶望の淵にいた私に力強く優しい言葉をくれた『眠れるお姫様』が美矢乃さまだったのだから。そのうえ、この学院に導いてくれたのだから。演劇部でやりがいを見いださせてくれたのだから。 その美矢乃さまが、幼い頃の私に言ってくれたように、今までも今も私ひとりを大好きだと言うのなら。それはもう、私が美矢乃さまを好きか否かの問題ではなく、心が拒否しきれない。 「今日の練習も厳しかったわねえ、千香、疲れてはいない?」 「疲れましたけど、一晩眠れば大丈夫です」 「まあ、千香は逞しいのね。頼もしいわ」 帰り道は必ず腕を組んで帰る。美矢乃さまは、歩調を私に合わせてくれる。 美矢乃さまは一緒に帰るようになってから、強引に血を飲ませようとはしなくなっていた。 公演まで、あと1週間。その後にどうなるかは分からないけれど、私に腕を絡ませる美矢乃さまは、それだけで満たされているふうに見えた。 「じゃあ、ごきげんよう。また明日ね」 「はい、また明日」 美矢乃さまが腕を離す。秋風のせいだろうか? ぬくもりを失なった腕はひやりと寒く感じた。 それを察したのか、美矢乃さまが私の頭を撫でる。 「そんな寂しそうな顔をしないで。離れたくなくなるわ。ただでさえ、公演が終われば一緒に帰れなくなるのに」 そう言う美矢乃さまの方が、ずっと寂しそうだった。 だから──だから、私は思わず口走っていた。 「美矢乃さま、……公演が終わっても、一緒に帰りませんか?」 何だか、すごく恥ずかしいことを言ってしまった気がする。もう、どんな顔をすればいいのか分からない。美矢乃さまの目には、どう見えているのだろうか。 美矢乃さまが目を丸くしている。穴があったら入りたいどころか埋まりたい。 「あら、あらあら……千香、本当? 本当にいいの? これから毎日、こうして一緒に帰ることができるの?」 「は、はい……あのっ、無理やり血を飲ませようとかしなければですよ? こうして一緒に歩くだけですからね?」 今度は意地を張ってしまった。それでも美矢乃さまは両手で自分の頬を包んで、かと思うと口元を押さえて目を細めた。 「嬉しいわ! ありがとう千香、分かったわ、千香ってツンデレっていうものなのよね? デレてくれたのよね? 私、千香に少しは好意を抱いてもらえているのかしら? ああでも大丈夫よ、無理強いはしないわ。一緒にいられる時間が、これからも続くだなんて夢みたいだもの!」 「ちょ、美矢乃さま、デレって、好意って……!」 何を暴走しているのですかと突っ込みたくなったところで、感極まった美矢乃さまが抱きついてきた。隣で嗅ぎ慣れつつあったフローラルフルーツの香りが近い。不意討ちの驚きで息が止まりそうになる。言動が矛盾しているようなと思うのは私だけなのか。 「──あのっ、ここは構内ですから! ひとが見てますから!」 「あら、ごめんなさいね。千香ったら可愛すぎるのだもの。ほら、耳まで真っ赤よ?」 「誰がそうしたんですか!」 「いいじゃない、どうせ腕を組んでいるところは毎日見られてきていたのよ? 事情が分からないひとから見れば私達……」 「言わないでください! 言ったら取り消します!」 言われてみると耳が熱い。美矢乃さまを直視できずに俯いて喚いてみたものの、焼け石に水だ。美矢乃さまはというと、体は離してくれたけれど、表情をこっそり窺ってみたら私が提案してからというもの、ずっとはしゃぎっぱなしだ。もっとも、言い逃れしてみただけであって実際には取り消す気はないのだけれど、それでも周りからどんな目で見られているかを言葉にされるのは耐えられない。まったくと言っていいほど免疫がないのだ。 「千香、怒ったかしら? ごめんなさいね、あんまり嬉しくて止めようとも思わなかったの。千香が嫌がるなら言わないわ。まあ、既成事実はどうしようもないけれど」 「……美矢乃さま、意地悪です……」 せめてもの反抗にも美矢乃さまは悪びれなかった。 「そうね、ちょっとつついてみてしまったわ。それは悪いと思っているのよ? でももうしないわ。これから時間はたくさんあるもの、ゆっくり今の私を知っていってちょうだい」 「……っ」 これでは交際前提だ。思わず口走った内容には、そういう意味を孕んでいたのか? いや、ただ私は名残惜しくて、美矢乃さまの寂しそうな顔を見たくなくて、どうにかしたくて、だから。 返す言葉に困って悶々としていると、突然背後から誰かに声をかけられた。 「あの、すみません。道をお聞きしてもいいですか?」 「……え? あ、はいっ」 振り返ると、一般人コースの制服を着た女のひとだった。胸元のバッジの色から見ると私と同学年だ。でも、顔に見覚えはない。
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