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晴れた日の、気持ちのいい昼下がり。
散歩を終えた患者を車椅子に乗せて、看護師がエレベーターを待っていた。
「はい。乗りますよ」
延長ボタンを確認しようとした時、通りがかりの医師がひょいと患者を運んでくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
医師はにっこりと笑い、患者に会釈をして去って行った。
患者の女性はほぉと息をつきながら、
「素敵な先生ねぇ」
と言う。
「そう、ですね」
看護師は首をひねった。
どこの病院の人だろう。
『西上泰山』。
彼のネームプレートにはそう書いてあった。
出張医師だとして、ここに来るのが初めてだとして、あの医師なら噂に上らないはずがない。
朝から誰一人、色めき立つ者はいなかったと思う。
エレベーターの中、看護師は違和感を覚えていた。
「いや~勘のいい婦女子だったな。やべぇやべぇ」
言いながら、西上医師はトイレの個室で姿を変えた。
10までゆっくりと数えてからドアを開ける。
手を洗っていた男性が、ぎょっとしたように眼鏡を動かした。
――こいつまだいたのかよ。
中肉中背の目立たない医師になった西上は、眼鏡の男の記憶を少しイジり、
産婦人科に向かった。
そっと診察室の前に立つ。
夫が、静かに妻のお腹に触れていた。
まるでこわれものを扱うように、優しく妻の髪を撫でながら。
「女の子だったら由衣子がいいな」
夫の手を取り、妻が言った。
「うん」
夫が微笑んだ。
西上はそれを見届け、音も無く歩き去った。
携帯が鳴る。
『終わりました?』
「うん。今確認した」
『じゃ、すぐに戻ってこれますよね? あなた賭けに負けたんですから、明日からしばらく、地上勤務は他の者が行います』
「おまえも来る?」
『もちろんです』
「楽しみだろ?」
『みんなワクワクしてますね。そういう意味では、あなたに感謝してますよ。
ところで泰山』
電話相手の声が下がった。
『あなたまた、最後に私の振りしましたよね』
「ああちょっとだけな、ごめんて。
しょうがないじゃん、俺の正装じゃ知らねぇ奴の方が多いんだもん。誰もビビんねぇだろ?」
『あなたが怖がらせてどうするんですか。おかげでこちらは大迷惑です。あなたが送り込んできた亡者ですがね』
動画が送られてくる。
『ええぃ面倒な手続きなどどうでもいいわいどうせ地獄行きじゃろうがっ‼さっさと終わらせんとこの鏡叩き割るぞあああああ熱い熱い傷が沁みるうぅーーーーーーっ』
「相変わらずの元気だなぁ」
『笑い事じゃないですよ。どんな幻覚見せたんです』
「まぁわかりやすいのを一通り?」
『あながち間違ってはいないですけどね』
「でさ」
『なんです?』
「今、明日からって言ってたじゃん? 今日一日は俺、こっちで過ごしていいってことだよな?」
電話の向こうで溜息が聞こえ、続いて彼の部下の声がする。
『閻魔様、そろそろお戻りを』
『わかりました。すぐ行きます』
電話の主が念を押してきた。
『私は業務に戻ります。いいですね? 今日一日、何も起こさず、速やかに帰ってきてくださいよ?』
「了解」
薬師如来は爽やかに答え、携帯を切った。
(了)
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