「オォコワ」と初めて鳴いたとき

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「オォコワ」と初めて鳴いたとき

 儂は、県道が走る琵琶湖沿いの集落を縄張りとしているハシブトカラスだ。 近くの「橋本ガラス」の店員ではない。 縄張りといってもカラスの世界では仲間同士に礼儀や義理があるわけではない。毎日が「仁義なき戦い」である。  特に若カラスは儂ら年寄りカラスを立てることはない。エサを回すどころか、横取りをしやがる。  この集落では生ごみを道路沿いの歩道に出している。一軒ごとに出すところもあれば、数軒でまとめて出しているところもある。ほとんどの家は網をかけて出している。儂らカラスを意識してのものだろうが、カラスにとって網など何も怖くない。それを知ってか知らずか、一軒だけ網をかけずに出している家がある。  生ごみの回収日は毎週、水曜と土曜だが、その家は午前八時二十分になると決まって玄関先の門柱横にごみ袋を出す。出すのはいつも白髪頭の初老の男だ。  あまり知られていないが、 儂らカラスの嗅覚はすこぶる悪い。そのかわりといっては何だが、目は非常によい。この男が眼鏡をかけていることもわかっている。そしてなによりも、おいしそうな生ごみが袋いっぱいに詰まっているのも見える。  ある日、儂はその初老の男の生ごみから二十メートル離れた電柱の上にいた。電柱の高さは十五メートルある。ごみ袋が置かれて数十秒が経った。もうそろそろあの男は家に入っただろうと、儂は生ごみに向かって三対四対五の直角三角形の斜辺に沿って、ごみ袋目がけて滑空した。  この時の雄姿を、今はやりの〇〇tubeにアップしたかったが、そこまでの能力は残念ながら儂にはない。  あと二メートルというところまできた時、ちょうど門柱を通り過ぎようとした時、これまで右手はモッコウバラの茂みで何も見えなかったが、急に視界が開けた。とその瞬間、ごみ袋の後ろ五メートルのところにあの初老の男が立っているのが目に入った。 「やばい」 と思ったが、滑空を途中で止めることができない。儂は思わず首をねじった。  体の向きがごみ袋から道路へと少し回転した。しかし、道路は車という厄介なやつが走っている。こいつらは失礼な若カラスたちよりもが悪い。絶対に道をゆずらない。そんな車とぶつかったらひとたまりもない。  動体視力にも自信があるので、ねじった右目で道路の先を見た。幸い車は来ない。と思った瞬間油断した。  着地しようとした足がもつれたのだ。このままだとこける。このとき左目に初老の男が見えた。 「ここでこけたらあの男に笑われるに違いない」  今度は首を逆方向に最大限にねじった。これはもうあの「ねじり王子」の比ではない。断っておくがカラスの世界では「ひねり王子」のことを「ねじり王子」と呼んでいる。あれはどう見ても体をねじっていると長老がいうからだ。 儂としてはどちらでもいいことだが、もし儂がオリンピックに出れば金は確実だ。  「ねじり王子」はジャンプの惰性で「ねじり」を行うが、今回の儂はまだ一度も地面を蹴っていない。すべて、滑空の中で自分の力だけで行った「ねじり」だ。羽をばたつかせ、あとは根性だ。  そして直角三角形の斜辺を、今度は下から上に向かって飛行した。きれいな直線など無理にきまっている。しかし、人間の目ではとらえられない程度のギザギザ飛行で、やっと元の電柱の上までたどり着いた。  後で考えると、元の電柱に戻る必要はなかった。向かいの自治会館の屋根でもよかったし、その横の空き地でもよかった。興奮していたので元の電柱しか見えなかったのだ。  そうそう、大事なことを忘れていた。この電柱に戻る途中で思わず発したのが「オォコワ」だった。  この鳴き声とともに儂の脳は活性化した。  儂はカラスだと自覚できた。
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