オンラインよしこ

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わたしの名はヨシコ。職業は教師。 「先生、ご無沙汰しております。順調です、『オンラインよしこ』」 よかったわね、とわたしは返事した。画面上に映るスーツの子は、かつての教え子。 わたしは教えた生徒は忘れない。たくさんの卒業生を送り出したけれど、例えば大昔、Tシャツに蛙を吸い込んだなんて変なこと言ってた子がいたのも覚えている。 この画面のあなたは、きっちりした子。毎年年賀状をくれて、ときどき同窓会に呼んでくれて一緒に飲んだりして。そのときにちょっとした雑談で出た話だったわよね。 今の時代、「こ」のつく名前は珍しい。でもわたしはこの「ヨシコ」という名に愛着があるから、同じ「よしこさん」を募って集まってオンラインを作ってみようかしら、なんて。今思うとそんな軽口が始まりだった。 教え子のあなたもよしこさん。公務員で、日頃の業務の煩雑さを嘆いていたわね。お仕事がリモートでできる時代なんだから、どんどん新しいことに挑戦していくべきよね。 「かつては5年に一度だった国勢調査が、年に一度、顔出し声出し確認で完了します。そちらから住民票や戸籍謄本などのご依頼があるときはマイクとカメラをオンにし、顔認証と声認証だけでPDF形式で発行されます。ここでいう住民票とは、昔の住所証明ではなく、この『オンラインよしこ』に在籍するという証明書になります」 やるわね、公務員よしこさん。 そもそも、結婚が問題だったわ。あ、結婚生活に不満はないのよ。すったもんだしたけど、結局同僚の教師じゃなくて、お寿司屋さんの彼とゴールイン。もうずいぶん前だけど。うふふ。 でね、不満なのは、細かい事務のこと。夫婦別姓が認められていない、でもどちらの姓にしてもよい、とか建前はそうなっているけれど、90%超の夫婦が夫の姓になる。慣習というか常識というか。わたしもあまり考えず、それが普通かとそうしたけど。 すぐに閉口したわ。姓が変更になると、全て名義変更が必要となるわけ。パスポート、銀行、クレジットカード、免許証、健康保険証その他もろもろたーっくさん。これ、手数料がそこそこかかるのよ。いちいち提出を求められる書類を書く手間も結構な労力。一時期腱鞘炎になったほどよ。ダンナはどれ一つしなくていいのに、理不尽よね。 教師の仕事を続ける上でも不便だったわ。 何年も経ってわたしを訪ねてきてくれた卒業生を、新米の同僚が「そんな人いません」って追い返したことがあったのよ。それで仕事上は旧姓を使うことに決めた。いわゆる通称ね。 それはそれでまた困ったのよ。娘の保育園から職員室に連絡がきたんだけど。まだケータイがなかった頃。 「そういう名の者は、ここにはおりません」 職場が旧姓、でも保育園では結婚後の姓。ってことでまたそんな行き違い。わたしはその新卒教師を突き飛ばして電話を取ったわよ。そしたら娘が保育園で怪我したという連絡だった。結果として大事なかったからよかったものの、急を要する場合だったらどうするの。苗字一つのことでこんなバカな話ないわよね。 「離婚したの?」とかうるさい父兄もいるし、校内では通称のサインでよくても、教育委員会等への公的書類なんかは全部戸籍上の新姓じゃないといけないとか。どこからどこまでが、っていちいち確認が必要で、もうホンットめんどくさい。 で、あなたの言う苗字の要らない「オンラインよしこ」よ。「よしこ」という名前だけが参加資格であるオンライン自治体。顔見せと声認証を条件に、わたしの全てを紐づけ。何か身軽になった気がしてスッとしたわよ。ダンナは「苗字が同じなのが周りにわからないって、寂しいなあ」とか言ってるけど。蹴っ飛ばしといたわ。 でも、彼の寿司を握る腕前だけは確かだから。今度お店にいらっしゃいよ。ごちそうするわ。それでまた、いろいろとお話したいわね。一緒に「オンラインよしこ」という自治体制をもっとよくする意見を交換しましょう。
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