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リックの職場はモルグだ。 そういうと大抵の人間は驚く。 よくそんな所で働けるな、気が滅入らないのかとひやかされもするが、身の程はわきまえてる。 リックは酒浸りの冴えない中年男だ。 短く刈ったアッシュブロンド、淀んだ翠の目。こけた頬には無精ひげが散り、負け犬の代名詞の外見を呈す。 ドラッグとはなんとか手を切ったが、今も後遺症で幻覚に悩まされる。 金持ちの私邸の芝刈りや雨樋の修繕、プールの工事で口を糊するリックを見かね、旧い友人が紹介してくれたのがこのモルグの警備員だった。文句をたれたら罰が当たる。 「知ってるかリック、イギリスじゃここを薔薇の別荘(ローズコテージ)虹の部屋(レインボールーム)と呼ぶそうだ。なんともロマンチックじゃないか」 くたびれた白衣を羽織った勤務医(マイルス)にフランクな調子で話しかけられ、リックは肩を竦める。 「夢の代わりに死臭が詰まってるがな」 「死体保管庫はジェーンとジョンで大渋滞か」 「不感症の死体(コールドボディ)にお熱だから女房とご無沙汰なんじゃ?」 「耳に痛ェな」 リックは苦笑気味にあたりを見回す。 死体を一時保管する性質上室温は低く保たれている。 天井の電灯の光をタイルが照り返す。 中央にはステンレスの手術台があり、さらに奥に引き出し式のロッカーが並ぶ。 あの内部に死体が収まっているのだ。 なかには損傷が激しく、原形を留めてないのもある。 当初は気味悪さを拭えなかったが、数ヶ月も経てば消毒液の匂いにすっかり慣れた。深酒で感覚を麻痺させただけかもしれない。 マイルスは盛大にため息を吐く。 「お前は?結婚考えた女の一人二人いねえのか」 「どうだかな。忘れちまったね」 「結婚なんてするもんじゃねえぞ、いいことなんて迷子になった靴下の片割れをさがす手間が省ける位だ」 「札入れにカミさんとガキの写真入れてるくせに」 「ただのポーズさ、見せろってせがまれた時にすぐ取り出せるように」 「自慢してェだけだろ、ごちそうさん」 マイルスが生意気盛りの娘と古女房を愛しているのは周知の事実だ。 五十路になるこの年まで家庭を持った経験がないリックは、マイルスが垂れ流す愚痴かのろけか曖昧な長話に気の抜けた相槌を打ち、自分ならばと人生の分岐点に立ち返る。 もしあの時、所帯を持ってたら何か違っただろうか。 リックが働くモルグは警察の管轄下にあり、事件性のある遺体が毎日のように運ばれてくる。 ギャングの抗争で命を落としたタトゥーだらけの若者、地下鉄に飛び込んだビジネスマン、日課のジョギング中に心臓発作を起こした肥満漢…… いずれも取るに足らない、掃いて捨てられた命だ。 都会には夢破れた人間が大勢暮らす。 リックもご多分にもれず若い頃は俳優を目指していたが、回ってくるのはぱっとしない端役ばかり。 主人公の二枚目がヒロインにプロポーズするダイナーの店員、病院の掃除夫、警官に撃たれる犯人役……出番は合計で1時間にも足らない、エンドロールに名前がクレジットされるだけ恩の字だ。 もともと映画が好きで入った道だが現実は厳しい。 いっこうに芽が出ず、三十を過ぎる頃には諦め、ケチな日雇い仕事で食い繋ぐ傍ら酒やドラッグで身を持ち崩していった。 キャスター付きの椅子からマイルスが乗り出す。 「こないだ見たぞ、お前がちょこっと出てるヤツ。タイトルは……あ〜なんだっけ?低予算のB級ホラーだよな、お誂え向きにモルグが舞台の」 「役は覚えてるか」 「ダイナーの店員。店ン中抜けて、裏口からゴミ出しに行く」 「正解」 「個人的な意見だがよ、悪かねえと思ったぜ。ゴミ袋の底が擦れてヘンゼルとグレーテルのパンくずみてえに中身が落っこちてくなぁ傑作だった。ありゃパロディか?」 「ゴミの出し方褒められてもな」 リックが鼻面に皺を寄せる。マイルスは構わず笑い飛ばす。 「顔面にぶっかけられたケチャップは本物か?」 「クソ野郎め」 同情かからかいか、判じかねる苦笑いでマイルスがリックの肩を叩く。 「あとあの娘!死体役の!数分間瞬きしねーでびっくりしちまった、CG合成か」 死体役の子。 ストロベリーレッドの赤毛と灰色のタレ目が印象的な。 束の間の忘我状態から回復し、皮肉っぽく笑って訂正を挟む。 「お生憎様、筋金入りの演技だよ」 「だよな?あのクソ映画に見所があるとすりゃ死体の演技に尽きる、完璧なりすましてた」 「死体役がウリだからな」 マイルスが妙な顔でリックを見る。 「知ってるふうな口ぶりだな。まさかお前」 「若い頃同棲してたんだよ、馴れ初めはアンタが貶したクソ映画」 俳優志望の男と女優志望の女。 売れない役者時代に支え合ったパートナー。 お互いオーディションに落ちまくり、正体がなくなるまでヤケ酒をくらった。暇さえあれば脚本を読み合い、お互いの演技にダメだししまくって喧嘩に縺れこんだ。 俗に思い出は美化されるというが、ナタリーとの日々の回想は、リックの胸中に苦汁を広げるだけだ。 「死体役がウリだった」と、過去形で処理できない未練が見苦しい。 さらに正確を期すなら「死体役だけが」と訂正すべきかもしれない。 「あんな綺麗な死体ならぜひともお相手願いてェ……口が過ぎたなすまん」 「気にすんな、とっくに切れてる」 「随分会ってねェのか」 「今どこにいるかも知らないね、とっくに結婚してガキこさえてるんじゃねえか」 もし努力がきちんと報われる世の中だったら、ナタリーはまだ隣にいたかもしれない。 努力の報酬に成功が与えられるとは限らず、才能の多寡をもって間引きされ、しばしば幻滅するのが役者の世界だ。リックはそこから脱落し、ナタリーとも疎遠になった。
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