ロータスの掌握

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ロータスの掌握

「困りました」  まるでこの晴々とした空模様を褒めるような声色で、何一つ困ってないような穏やかな笑みを携えた翠蓮(すいれん)は、実は本当に困っていた。原因は目の前にいる名も知らない男のせいである。 「何か困ってんのおねーさん?オレが助けたげるよ〜!」 「そうですね、早く帰りたいんですが」 「ええっ!?そんなこと言わずにさあ〜!」 「んん、」  行く道を塞がれ軽薄な笑顔を向けられて、もう一度「困りましたねえ」と苦笑した。  仕事終わり、少し買い物をして帰ろうかと普段あまり寄らない場所に赴いた翠蓮は、早々にこの男に絡まれたのだ。翠蓮は同性からの羨望さえ集めてしまえる美人なので当然といえば当然でもあるのだが、残念ながら不埒者集めてしまうのが何とも迷惑な話だとも思う。 「(半までには帰りたいんですが、)」  やはり困っていた。腕時計の秒針をチラと見て、早く帰って夕飯の支度がしたいのにと肩をすくめる。  愛しの兄は四日間滞在して直ぐに飛んでしまって、憂那が寂しそうに兄の部屋の扉を見つめるのが翠蓮は愛おしかった。  だから大学から帰っても家で一人にならないように早く帰って待ちたいのに、それが許されない。機嫌の向く方で騒ぎ立てるような知能の低い生き物を羨んでしまいそうになる。 「(ああ、)」  翠蓮はひっそりと嘆息した。  あまり治安が良くない街は物が安い傾向にあると教えてくれた人は「絶対に一人では行くな」と怖い顔をしていた。だから翠蓮は決してそういう場所に一人で向かうことはしない。  今日だっていつも行く場所ではないが、近くに小学校と警察署があり、住宅街と商店街が割と近くで共存している活気ある町だ。荒れた噂なんてひとつもないのに、見目だけで寄ってくる者は腐る程いる。いらない検証結果は提出場がなく燃えるだろう。 「ねえねえ!聞いてるおねーさん?一緒に遊び行こーよ」 「すみません、時間があれば良かったんですが今は急ぎなので」 「ええっ男?」 「いいえ、妹です」  一瞬気を落とした男が翠蓮の返事で地上に戻ってくる。すると男は「なんだ」と笑いながら、無遠慮にも女の腕を掴み。  そして何より許し難い言葉を、おめおめと吐いてみせた。 「じゃあ大丈夫でしょ!」 「………なるほど」 ───それは、許されない暴言だ。  翠蓮はコンマ数秒、妄言も休み休みいうべきだと呆れかえった。そして何だかもうこの男と話していることが嫌だと、無駄だと感じてきた。  微笑みを携えたまま、捕られていた腕を振り払う。ぱしんという音は、男の短い緒が切れる音でもあったらしい。低く唸る、女という生物を脅す響きが向けられる。 「……あ?痛いんだけど、何?何に怒ったの?」 「ごめんなさい」 「は?」 「私の中に、貴方のために使う時間はないの。だから」  目の前から消えて欲しいです。  笑っている、翠蓮は何処までも笑っていた。冷たい目の色もしていない、刺すような空気も感じない……だというのに男は足元から駆け上がる悪寒に身を震わせた。  男は身の毛が弥立つ感覚と同時に、急速に体の一番高いところへ血が集まっていくのも感じていた。 そして目の前が真っ赤になり「っ、」と舌打ちすると翠蓮に向かって手を振り上げた。 「……」  女は、動かない。  ただじっと振り下ろされるであろう男の手を見つめていた。あまりにも無防備で、そのままでいれば最も容易く白い柔肌に拳が届くだろうに。怯えどころか動揺の欠片もない、凛とした眼差しだけが世界に映える。 ───影が、二人の間に混じった。次の瞬間、腕は第三者によって止められていた。 「女に手ェあげてんなよカス野郎が!」  黒の、見慣れた黒とはまた違う黒髪を持つ男が、翠蓮を庇ったらしい。細身のシャツから浮かぶ背は均整が取れ、咄嗟に開いた口の悪さが無ければ騎士にだって見えた。 「はっ……ぐあっ、!!?」  殴ろうとしていた男の手首を目で分かるくらいの強さで握り締め、その視線は相手から逸らさない。盛大な呻き声が聞こえても、力を緩める様子はなかった。 「ええと」  翠蓮は斜め上にある黒髪の男を見上げた。  青い、獣の双眼が、獰猛な野獣を思わせる宝石が、翠蓮の翡翠を捕らえる。そうして、僅かに獣が息を詰めたのが分かったが、すいと躱されたことでその理由までは分からなかった。 「ぅ、離せよ!!!」 「!……ちっ、逃げやがった」  忌まわしい手が少し気を取られたのを見計らい、男は一度も振り返ることなく駆け出した。気の動転を証明するように平らな地面を躓きながら必死で進んでいる。  きっと握られていた手首は数日痣になり、手枷の跡のようになるだろう。ひょっとしたら折れているかもしれないが、その場に残された二人にはどうでもよかった。  背姿も影も見えなくなった頃、成り行きを黙殺していた翠蓮が顔を上げた。そして張り詰めた空気を弛めるには抜群の、水のように透き通る声で礼を告げる。 「よかった、助けていただいてありがとうございます」 「あ?……あー、怒らせるんなら逃げる動きぐらい見せやがれ」 「生憎直ぐに動けるタイプではなくて」 「じゃあ助けを呼べや」 「ふふ、巻き込んだりしたら見て見ぬ振りをしていた方々が可哀想でしょう」  翠蓮の言いように、男―――蒼慈(そうじ)はぽかんとした。嫌味を言うような女なのかと見つめ合って、首を傾ける。乱れのない髪が風で遊ばされないように抑える彼女は、嫌味のつもりではなくただ本当に「可哀想」と思っている。事実に気付き、納得する。  成る程、非力だが強かで。力はないが頭はあるらしい。 「お礼ですが商品券と食事券とどちらがいいですか?」  流石に現金を渡すのは忍びなくて、と見せられた商品券だって現金の一種だろうに。  予想斜め上からの質問に蒼慈は肩を落とした。だが蒼慈の容姿にときめいて「お茶に」だの「お名前を」だのとはしゃがないのはありがたかった。  その容姿だ、蒼慈を捕まえる程困ってはいないのだろう。蒼慈は深く息を吐くと、くつりと喉を鳴らして眉を上げた。 「なんか、アンタと話すと力が抜ける」 「そうですか?」 「そ。どうせ要らねーっつっても、聞くタイプでもねェんだろ」  少し前の翠蓮の言葉を真似する蒼慈に「そうですね」と笑みを返す。押し付けがましいが相手の迷惑にはならない提案だ。何より手元に残る物じゃないのがいい。  蒼慈はがしがしと後頭部を掻き翠蓮を見下ろしてみる。改めて見れば、目の前の女は本当に美人だった。顔立ちや体躯といった目を引く造形はさることながら、眼差しや所作、はたまた指先のひとつですらも。勿論妹には負けるが。  翠蓮とて、目の前の男のかんばせは整っているが、兄程ではない。などと穏やかな顔の隙間で篩にかけていた。 「何処の食事券」 「焼肉ですね、行ったことありますか?」 「おまっ、これ街のたっっかい所のじゃねーか!!しかも全品半額!??んなのあんのかあそこ!?」  大好物である肉に興奮し声量の上がった蒼慈はまるで子供のようで、翠蓮はとても嬉しくなった。食事券を両手で恭しく持つ姿にくすりと笑えば、蒼慈はハッとなり目を逸らしてしまう。その姿を残念に思いながら、それでも可愛らしい人だと翠蓮は笑みを深めた。 「はい、頂き物なんですが余ってしまった分なので、よければ」 「貰うわ、さんきゅ」 「ふふ、沢山食べてきてくださいね」 「……おー、」  翠蓮の放つ柔らかな空気が何ともむず痒くて、蒼慈は直ぐに感謝したことが恥ずかしくなった。かっこつけたいわけではないがガキすぎたかとも思う。普段からただの買い出しでも眉間に皺を寄せて眼光鋭く態度最悪で歩く蒼慈だ、こんな風に普通に話せる相手なんて殆どが身内で、それも片手で足りる数しかいない。  だから、普通に会話をしてくれるだけでも僅かばかり動揺してしまうというのに、周りを警戒していない無防備なはしゃぎ様を見せたことで更なる羞恥心に襲われた。 「(早く帰らねェと)」 ───不味い気がする。でも何が不味いのか分からない。  蒼慈はじわりじわりとした不安が首元に纏わりつく感覚に気付いていたが、どうにも動けなかった。蒼慈を見上げることで視線を合わせてくれている翠蓮を見つめても、やはり動けない理由は分からなかった。 「そろそろ帰りますね、こんなお礼ですみません」  答えのない問題を思考することは蒼慈にとって苦痛でしかないのだが、謝ってくる翠蓮によって止まった回転が名残惜しい。 「あー……」 「?」  直ぐに「おう」と返せなかったのは、多分予感があったからだ。此処にいては不味いが、此処にいたら良いことがある、という。  そしてその予感、第六感は、間違いではなかった。蒼慈はこういう肝心な時の嗅覚は桁外れなのだ。 「姉さん?」 「あれ、お兄ちゃん?」  鈴を転がしたような、世界中の誰より耳馴染みの良い声がふたつ。聞き逃す馬鹿はこの場にはいなかった。  翡翠と蒼玉がぱっと声の方に振り返って、蒼慈は驚き、翠蓮は破顔した。 「こんにちは憂那(ういな)」 「愛裡(まり)?何やってんだお前」 ───はて。  首を傾ける四人が道にぽつり。ジッと自分と血を分けた家族を見て、ゆっくりとその隣の少女を見る。そして最後に自分の隣に立っていた相手を見て、停止。 「……知り合い?」  それはどちらの妹の声だったか。 ◇◇◇◇◇◇ 「憂那が会った子のお兄さんに私が助けられるなんて、巡り合わせは面白いですね」 「どんな偶然だよ……」  道の真ん中では他所に迷惑がかかると全員で移動して、近くの喫茶店で腰を落ち着けた。兄妹と姉妹で横に並び、硝子のテーブルを挟んで座る。  店は温室テラスをイメージしたのか白と緑で構成され、観葉植物の瑞々しさも眩しいが、何より曇りひとつない全面の窓硝子が壮観だった。  その中で笑う翡翠の瞳の美しさは、もはやドリュアスの生まれ変わりのようでいて、青海の瞳の動揺は陸に打ち上げられたイルカのように愛おしい。 「憂那の姉の東雲翠蓮です」 「…愛裡の兄の白勝蒼慈だ、アンタの妹には世話になった」  状況を整理した翠蓮がほのほのと笑うその隣、運ばれてきた紅茶には手を付けず、向かいの蒼慈を見つめていた憂那が口を開いた。 「姉さんを助けてくれてありがとうございます」 「こっちこそ妹を助けてくれてありがとな」  憂那は男が愛裡の兄だとしても警戒は解かなかった。何故なら今までも危険に晒された姉を助ける男は星の数程いたが、その内の半分は自作自演だったからだ。他者を使い姉を傷付け自分が助ける、そんな屑ばかりだったから、例え妹の愛裡が良い子だとしても信用はしない。信用に足る証拠は何ひとつないのだから。  そしてそういう窺いの視線に、蒼慈は鋭い。同じ穴の狢、同担拒否。彼自身、その視線を憂那に向けていたからだ。 「申し訳ないです、でも本当に助かりました」 「うう、私もごめんなさい…ありがとうございました…」 「何の謝罪なの…」  打算なしに蒼慈の妹として知られている愛裡を助ける女なんて、これまでいなかった。昔一人いたが、それもまやかしだった。  だから彼は憂那を信用していない。例えその姉の翠蓮がどんなに無害だろうとも。隣に座る愛裡と呑気に謝罪と感謝の応酬をしていようとも。 「(話してたらボロが出るだろ…)」 「(屑だったら警察呼ぼう)」  水面下で火花を散らす身内を横に置いて、戸惑う愛裡と微笑む翠蓮は楽しそうに紅茶を飲んでいた。 「愛裡さんはミルクとお砂糖どうします?」 「エ、あっ、りょ、両方いります!」 「はいどうぞ。甘い物がお好きなんですね」 「は、はい…!ありがとうございますっ!あ…甘くないと飲めなくて、コーヒー牛乳とかもギリギリ、その、子供舌なんです……」 「そうでしたか。私も苦い物は苦手なので、お揃いですね」 「ええっ!意外です…!」 「なので無理は禁物ですよ、お砂糖はいくつ?」 「み…ふた、つ、で!」 「みっつ、ですね」 「うううっ…ありがとうございます……」  硝子の器から角砂糖を取り出して、紅茶が跳ねないよう面と水平に静かに落とした。赤茶色の中に砂糖が溶けて出来るオーロラが揺らめいて広がっていく。  愛裡は受けたことのない穏やかな空気に当てられて、頬がひたすら熱かった。兄以外に甘やかされた記憶がないものだから、反応に困っているだけ、その筈だ。 「(翠蓮さん、すごく優しい……憂那ちゃんのお姉さんっていうの、分かるなあ……!)」  愛裡が憂那と一緒にいたのは、先日の感謝を改めて伝えるためだった。  厄介な男への恐怖ではなく、誘いを断られたらどうしようという不安に震えながら勇気を出した結果憂那は頷き、今日愛裡のために時間を空けたらしい。そのことを翠蓮は聞いていたのだが蒼慈は聞かされていなかったようで、聞き終わると少し拗ねたように口を結んでいた。  彼は心配なのだ、悪い女に騙されてはいないかと。大事な妹の心が傷付けられはしないかと。  普通であれば、とても仲の良い兄妹だと言うのだろう。けれどそんな言葉は東雲姉妹の何方からも出なかった。 「おや、二人は同じ大学ではなかったんですね」 「はい、私は駅の反対側にある大学なんです!憂那ちゃんは近くの美大って聞いて、帰りにお茶でもって…!」 「憂那がお誘いに乗るのは珍しいですね」 「……家に近かったし、あと、気になるのもあって…」 「わ、」  愛裡の口は思わず声を発した。  先程までずっと無表情で、淡々と会話をしていた可愛くてカッコいい存在だった憂那が、翠蓮の一言で頬を染めていじらしく目線を下げたからだ。 「(かっ、かわいい…)」 「そう、買いたい物は買えました?」 「ん……これ、」  不用意に心を騒つかせる濡れた瞳が憎らしく、如何にも目が離せない。憂那はソファ椅子の横に隠すように置いていた白い箱をおずおずと翠蓮に渡した。  上部が交差した箱にはシールが貼られ、恐らく店名が記されている。翠蓮が下から支えるように受け取ると、ひんやりとした感覚があった。全体ではなく一部だけの冷たさ、保冷剤の疎らさだと分かる。  中身なんて誰でも察しがつく見た目の箱からは、間違いなくふんわりと甘い予感が香っていた。 「私に?」 「そ、う……私も食べて、美味しかったから……姉さんにも、食べさせたいなって……」 「……んな照れることか?」  蒼慈の呆れた声は小さくて誰にも届かずに済んだ。  真っ赤になって目を合わせられずにいる憂那は、まるで告白の返事を待っている少女のようで、白勝兄妹は「どういう状況…?」と心の中でシンクロした。  だが憂那にとっては告白なんかより羞恥心と不安を煽られる時間に違いなく、だがそれも直ぐに終わる。厳密に言うと五秒ほどで。 「憂那!」 「きゃっ、ね、姉さん!?」  翠蓮が、唐突に憂那の頭を抱えて腕の中に閉じ込めたのだ。 「えっ、すいれん、さん…!?」 「は」  当事者でない者達の焦りが凄まじいのは当然で、それよりも困惑したのは憂那のみ。 「嬉しいです、貴方が美味しいと思った物を私に買ってきてくれたんですね!」  「う、あ、っ〜!!」  満面の笑み、翡翠の瞳を蜂蜜なんか目じゃないくらい、鍋にへばりつく前まで煮詰めた溺愛。真正面からぶつけられた憂那は与えられた柔らかさに硬直し、向かいで見ていただけの愛裡と蒼慈まで瞠目せざるを得ない。  まるで見てはいけないものを見たような気分にさせられて、愛裡は汗を流しながら俯き耐えた。蒼慈は逆にまじまじと翠蓮の顔を見つめてしまっていた。 ───美人の蕩けた顔は、凄まじい。 「ありがとうございます、帰ったら一緒に食べましょうね」 「、うん、」  本当に嬉しいです。幾度繰り返されても、それは嘘ではないと分かった。過不足でも過剰でもなかった。  そっと離れ、憂那の手を大事そうに両手で包みながら言葉を紡ぐ。感謝がまるで愛の言葉に聞こえるほど甘やかな声音と表情は、魅了の悪魔のように鮮やかだった。  そうしてやっと、蒼慈は気付く。 「(妹が何より大事なんだ)」  一歩間違えば道を外れてしまいそうな愛情に、彼は見覚えがあった。 ───紛れもない、あれは自分の姿。  妹が大好きで、可愛くて、大切で、誰よりも愛している。文句ばかりを垂れ流す外野は削除し続け得た安寧の末の、まさかの出会いだった。  何となく放って置けなくて助けた女が、世界で一番の宝物を助けた女の、姉だった。それがまさか同類の邂逅となるなんて。  あまりに劇的だとも、素っ気ないとも、客観的だともとれる運命の輪の中。非日常の女神が、結い上げた髪を解く、気配がした。
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