トレイド・ウィンドの誤算

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トレイド・ウィンドの誤算

 大通りから外れた小道を行き、見えてくるのはオリオン・ブルーの屋根。シャッターが落ち、もう何年も開いてないコンクリートの両隣の真ん中に、そこはあった。  熱の息吹を宿した窓硝子、雑多に見えて規則性を見出す植物達。外観だけで言えばおしゃれな古民家にも、それを利用したカフェにも見えるゆったりした音楽のかかる空間。  雨や風の気紛れと共に開く書店。主に扱っているのは洋書、数年前に自適の生活に入った先代に代わり翠蓮(すいれん)がオーナーを務めている。  知る人ぞ知る、または迷い込み誘われるその場所に《招待状を持つ》男が一人、アンティーク調のドアベルに許されて、足を踏み入れた。 「いらっしゃいませ、早速来ていただけて嬉しいです」 「おう、店の内装に使えそうなの探してたからな」  腹の空き具体からして昼過ぎ。柔らかな空気と共に訪れた蒼慈(そうじ)を一番に迎えたのは、これまた柔らかな笑みを浮かべた翠蓮だった。  椅子から立ち上がり近付いてきた彼女の手には読めない題名の本がある。蒼慈にはどの国の物かも分からなかったが何となく、読めるようになれば楽しいのだろうと思えた。 「気に入る子がいればいいのですけど」 「子って何だよ」 「先代がずっと子供のように呼んでいたので、私が物に戻しては寂しいでしょう」 「ふはっ、」  真剣な色の目で言われ、蒼慈は吹き出す。こういう個人営業で客を選ぶ場所にある店の主人は基本的にマイペースな人間や変わり者、偏屈な者が多い。故に後継を見つけるどころか探しさえしない店が殆どの中、此処も変わりないだろう。  拘りぬかれたインテリアに埃は無いが、売り上げのことなど一切考えられてないような営業方針、認知度の低さ。そして何より顕著なのは商売道具である書物の扱い。よっぽど認められていなければ今頃蒼慈の相手をしていたのは別の誰かだった筈だ。 「真似をしてたら段々可愛く見えてきて」 「ドツボに嵌ってんじゃねェか……あ、俺も近くに豆や酒を人間扱いするやついるわ」 「おや、危ないですね」 「どうすんだよ意識しだしたろ」 「《アッサムちゃん》はメニューにいますか?」 「いるが紅茶は少ねェな。後は有名どころの《ダージリンクン》と《アールグレイクン》しかいない」 「紅一点でしたか」 「っ、ふ、」 「ふふ、」  テンポ良く言葉を重ねて見つめ合い、同時に笑う。  これが先日初めましてを交わした、家族以外を信用しない二人だというのだから大海とは面白い。  今日蒼慈が翠蓮の店に来たのだって仕事で必要になったからだが、問題があったら直ぐ対応出来るようにとの思惑で、主に蒼慈と憂那が探り合っていた名前と仕事は思わぬ所で助けになった。 「昼はカフェ、夜はバーでしたね。棚の花代わりに?それとも貸し出しケース?カウンター?」 「棚。こないだ壁に板ぶっ刺したからそこで埃被る予定。あとバーテンの暇潰しにもなりそーなの、英語で頼む」 「なら表紙のデザイン重視で幾つか出しますね。バーテンダーさん好みは何か?」 「ホラー以外、でも日本のホラーだから多分ゴースト悪魔系は読める」 「つまり何でも良いと」 「正解」 「では私の好きな子と有名な子を出しますね」  ひとり、またひとりと目の前の机にはずらりと装丁の美しい子達が並べられ、どれもこれも私を取ってと視線を奪わせにくる。  アリスブルー、インディアンイエロー、ラージャルビーの台紙を飾る金や銀の箔押しが角度によって色を変え、きらきら、きらきらと蒼慈の視界を埋め尽くす。 「これ」 「先代の秘蔵っ子ですね」  蒼慈が指したのは少し古びたキャメル色に細い線で沢山の花が描かれた子。題名と一番大きく描かれた花だけに銀箔が乗せられていたが、華やかというよりは繊細で儚い。しかし目を引く大胆な構図が一切の脆さを打ち消している。 「花で髑髏作ってんのがいいわ。どんな内容だ?」 「ふふ、楽園にいた天使が死ぬまでのお話です」 「表紙詐欺だろ」 「悲しい物語ではありませんよ、ラブロマンスですから」 「ふうん……」 「興味があるなら内容をお話しましょうか?」 「ああ───……、いや、」  蒼慈は自分の口から漏れた「ちょっと興味ある」風の音に驚いた。思わず口元に手を当てて本を見るが、恐らく天使からの答えはない。  彼の読書への興味のなさは愛裡もほとほと残念がっていて、小説どころか漫画にだって関心がない。流行りの作品に影響された装いの人間が街を通ろうが、絶対泣けるだの良い話だのと進められようが自ら手をつけたことはない。 「い、まは……」  「ではまた今度で」 「……これ、」  だから余計、表紙から視線を逸らせない己の行動が謎だった。  上手く回らない頭はただ、髑髏の左眼近くに描かれた銀箔の花の名前を探している。花の名前なんて絵で見て当てられたことなんかないくせに。 「何て花だ」  つう、と絵をなぞれば僅かな凹凸が感じられた。 ふと、影が降りてきて、蒼慈は驚く。翠蓮が彼の手元の本を覗き込んだのだ。 「エーデルワイスですね、高地の寒い場所で咲く白い花」  華奢な肩から滑り落ちる茶金色に目を細める。 「(珍しい女)」  こんなに至近距離で話しかけておいて、それでもその目や表情に期待の色はない。欲混じりの好意、悪意ある謀略、そのどれもない。  何の色もない行動が、蒼慈の心を迅らせる。新緑の宝石が二つ、それだけが何かに気付いていた。 ◇◇◇◇◇◇ 「茶まで悪いな」 「いいえ、むしろ貸せる傘がなくてすみません」  バーテンダー用の本も選び終えて、帰ろうかという時、外はいつの間にか雨で濡れていた。コンクリートの濡れた独特の匂いが鼻腔を突き抜ける。  身ひとつであれば蒼慈は駆けたが、購入したての本を濡らすのは躊躇われたのだろう。  翠蓮も傘を持たず出勤したものだから、貸せる物がなくお互い帰れなくなったのだ。天気予報では雨のあの字もなかったのに。  蒼慈を椅子に案内して緑茶を出すと机を挟んだ向かいに翠蓮も座った。明日にでも予備の傘を用意しようと心に決めて。 「ふ…休んじまっていいのかよ?」 「お客様の話相手も仕事ですから」 ───ピロン。不意にスマホの通知が入り、二人は同時にスマホを見た。 「私でしたか」  呟いた翠蓮が目元を緩ませてトーク画面を見るものだから、蒼慈は相手が誰なのか直ぐに分かった。接客時とも雑談時とも違う表情の変化は分かりやすく、美麗ゆえに人間味を欠けさせた人形に血潮が通っていることを思い出させる。 「妹だろ」  くつり、と笑って断定すれば、そこらの男に与えるには過剰すぎる花の綻びが広げられた。 「はい、どうやら迎えに来てくれるみたいです。愛裡さんも一緒みたいですね」 「ああ、今日も会うって言ってたわ。俺も此処に来るって言ったから」 「可愛い子のお迎えは嬉しいですね」 「そうかよ」  しかし、鼻で笑いながら答えた蒼慈も、彼のスマホに通知が来るとロック画面の時点で口角が上がっていた。 ───内容なんて見ずとも、翠蓮には誰からのメッセージか手に取るように分かった。  可愛い妹の心を無碍には出来ないと、迎えが来るまで二人大人しく待つことにしたよう。浮き足立つ感覚が、体温を僅かばかり上げさせている。 「新品も古本もあんのな」  蒼慈は心を鎮めるべく、お茶を飲みながら改めて店内を眺めた。如何やら棚によって細かく分けられているらしい。  几帳面なのは彼女の性格か先代の影か一考して、何となく、先代だろうと思う。 「ええ、ツテがあるのでそこから色々と回してもらえるんです」 「売れんの?」 「マニアには」 「どうやって食ってんだ…」 「主な収入は兄さんの手伝いです」  ぴくり、蒼慈の眉端と首が好奇心という悪魔によって擡げられた。 「そういや、もう一人上にいるのか」 「はい、私の五つ上に」 「可愛がられたろ」 「今もとても可愛がられてます、私も憂那も。大好きな兄さんなんです」  花も恥じらう満面の笑みで、うっとりと呟いた翠蓮に蒼慈が笑う。家族を大事にする人間は彼にとって好感度が高い。 「(シスコンでブラコンかよ、俺以上だな)」 「白勝さんは愛裡さんだけですよね」 「おう、世界一可愛い妹一人」 「少し人見知りするようですが芯が強い子ですね、憂那が『お礼させてくれるまで会いにきます!』って脅されたと言ってました」 「あ?そりゃ筋通さねえと、助けてもらったらありがとうだろ」 「そうですね、ありがとうございました」 「アンタは言い過ぎ  眼光鋭く、眉間には常に皺。耳にはピアス。見た目だけなら蒼慈は完全に不良で、しかしその思考回路はどちらかといえば任侠寄りだった。  ヤクザに間違えられたこともあるらしいと翠蓮は憂那を通して聞いていたが、勘違いされても可笑しくはない。  義理堅さとは字面だけなら陳腐なもので取り留めのないものだか、蒼慈の言葉や行動からは上澄だけの物寂しさは窺えない。 「兄さんもその辺りの釣り合いはしっかりとらないと、与え過ぎてはいけないと言っていましたね」 「そのとーり」 「でもまだ言いますね」 「おい、じゃあ何だ今の流れ」 「これからは『憂那と友達になってくれる素直で可愛い妹さんを育ててくれて、ありがとうございます。』になるので別物でしょう?」 「は……?っ、アハハッ、それじゃあ二人が仲違いするまで言わねーとだろ!」  キン、キンと。打てば響くテンポの会話はストレスがなく、心地良いとさえ感じられる。  蒼慈は夜のバーでさえ客とこんなに話すことはしないのに、やはり同類だからだろうか。翠蓮の前でだけは素の自分で、軽快に舌が回った。  そして、それは翠蓮とて同じだった。彼女も来店客をもてなしはするが、基本的に話しかけることはない。困っていたら助ける、それ以外はノータッチ。レジカウンターで静かに本を読んでばかりいるせいで、幾度か装飾のビスクドールと間違えられたほど。 「はい、予感ですけど、これから一生言わなくちゃですね」  二人とも、誰かに近付きすぎると面倒事が起きると知っている。身に染みているのだ。異性だから、同性だからと言い訳はなく、油断もできない。痛い目に遭ってきたからこその自衛手段が、距離を保つことだった。  だから今、二人のこの姿はとても珍しい。  自分達でさえ「珍しい」と自認しながらも、今更眉を寄せたり本を読み出したりはしなかった。 ───ただ単に、居心地がいいのだろう。理解者の側は。 「妹に恋人できたら普通に泊まってけとか言いそうだな」 「憂那がそうして欲しそうなら、勿論」 「どんな奴なら断んの?」 「思い付かないですね…白勝さんは?」 「とりあえず大前提に俺より強い奴。じゃねェと許さねえ」  拳を握り締め舌を出す。挑発するように口元を歪める蒼慈の瞳は光がなく、如何にも凶悪だった。  それを見つめる翠蓮は、お上品に口元を隠しながらも身体を震わすばかりで、大変楽しんでいる。 「アンタは?」 「あの子が選ぶ恋人なら、誰でも」 「騙されてたらどうすんだよ」 「一度憂那と話し合いですね」 「ハッ甘ェ!俺ならまず社会的に殺して精神殺して愛裡がそいつに使った時間だけ殴り続けんぞ」  あまつさえ、慈悲なんて勿体ないと唸る喉元は白く、牙の色をしていた。一度でも選択を誤れば、熱い血潮を感じられるだろうと悟らせてくる。 「ふふ、そうですねえ……話し合って、傷付いていたのなら慰めます。仕返しがしたいというなら協力しましょう、忘れたい、次に進みたい。何がきてもなんでも叶えてあげたいですね」  一方で、翠蓮の言葉には甘美な響きしか見受けられなかった。許すとでも言うような、柔らかな音が全てを許容しているように錯覚させられる。 ───なるほど。蒼慈は慄いた。  威圧感も覇気もない、ただただ、ご機嫌いかが?と尋ねているようなものなのに、ふるりと鈍い痺れが全身を巡る。 「分かる、何でもしてやりてえ」 「分かってくれますか」  狩りの方法が一致した時の緊張感は、膨れ上がっても手元から抜け出すことはない。  真顔で頷くも、直ぐに蒼慈はため息を吐いた。いつだって考えているのは己の最愛の家族のこと。 「ただ愛裡は優しすぎる。絶ッッッ対我慢しやがるから俺がやんねーと。いや、本当に出来た妹だわ。優しくて可愛い。無敵だろ」 「頼られないのは悩ましいですよね…憂那はあの性格なので自分で解決できてしまうんです。まあそんな所もかっこよくて可愛いんですけど…」 「分かる…」 「分かってくれますか」  どれだけ妹への感情を吐き出しても、途切れることなく会話が続くことが不思議だった。  内容は大概人に言えたものではないのばかり。普通に過保護、一歩間違えば近親相姦者として白い目で見られそうな危うさがある。翠蓮に至っては同性でもあるからこそ余計に危険な香りが漂っていた。  今まで、進んで誰かに話したことはない。  だって二人が妹に向ける感情は決して恋慕でないのは確かだが、愛している。 ───世界の何を犠牲にしたって構わないと、天秤の皿には世界と家族が乗せられ片方に傾いている。 「(理解される方が難しい)」 「ふふ、」  翠蓮が嬉しそうに目を細めた。何処か懐かしんでいるようにも見えたが、蒼慈は追及しなかった。いや、出来なかったといっても間違いではない。彼は翠蓮の甘い緑色に息を呑んでしまったのだ。 「外で憂那の話をしたのは初めてです、意外と楽しいですね」 「、そーかよ」 俺もだ。音にはならなかったが、伝わっただろう。  それからも時間は穏やかに流れ、雨が止むこともなく二人の可愛い妹が迎えに来るまで会話は続いた。  愛裡と憂那は、珍しく打ち解けた様子の兄と姉に首を傾げたが、蒼慈の「途中までは送る」と言う言葉と、翠蓮の「ありがとうございます、お願いしますね」という対応で困惑は増した。  彼の手にはしっかりと傘と購入した本の袋がある。 「(なん、だか……お兄ちゃんと翠蓮さん、仲良くなってる…?)」 「(そう…ね……?)」  嫌いな人間ではないと思っていたが、妹達の想像を遥かに凌駕した現実に思考は散らばるばかり。  しかし混乱する者への配慮が上にはない。 「お二人は電車に?」 「おう、どうせ隣だけどな」 「近いですね、擦れ違っていたかもしれません」 「それこそアンタが絡まれてた時だろ、騒がしーから見つけられた」 「じゃあまた騒いでみましょうか」 「やめとけやめとけ」  もう何度目か、妹二人は顔を見合わせて同時に首を傾ける。 ───はて、こんなに機嫌の良い姿は見たことがない。  愛裡は何だか嬉しくなり、手を叩きたい衝動に駆られ我慢した。逆に憂那は不服そうに見つめていた。  駅と翠蓮達の家に続く道の交差点に差し掛かると愛裡より先に蒼慈が口を開く。 「また愛裡と遊んでやってくれ」 「…言われて動く訳ないでしょ。私が遊びたいと思った時しか会わない」 「ハッ、だとよ愛裡」 「もーー!お兄ちゃんうるさいっ!」  顔を真っ赤にしてぽかぽかと背を叩く愛裡の頭をぐしゃりと撫で、憂那から視線を逸らしてその隣に立つ翠蓮を見た。  一瞬、目が合って、口籠もった。それを見た翠蓮はああ、と頷いて。 「またお話ししてくださいね」 ───楽しかったです、送ってくれてありがとうございます。色んな意味の込められた感謝を述べた翠蓮の言葉が終わり、そうして漸く蒼慈も口を動かした。 「おう、今度はウチの店に来い。ンでその時は連絡しろ」 「はい、ぜひ」  それが社交辞令でないことを二人だけが知っていた。  手を振って、それぞれの帰路につく。愛裡は取れそうなくらい大きく振っていて、傘からはみ出たせいで袖が濡れている。返す憂那は、傘を持っていない方で控え目に手の平を向けた。  蒼慈は、翠蓮と憂那が見えなくなるまでそこを動こうとはせず、立っていた。友人を見るような目が擽ったくて、翠蓮は音にはせず「また」と呟く。  気付かれても気付かれなくてもよかった。ただ今日の雨は、心地良く感じられたからこそ。  姉妹の影さえ見えなくなると、蒼慈は漸く隣に立つ愛裡を見た。今日翠蓮と重ねた言葉に嘘はなく、居心地悪い程の過保護で常日頃側にいる。  だからこそ、己とは違い牙も生えていないような美しい女が少しばかり心配になるのだろう。 ───その判断は尚早だと、次には改められた。
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