ペテル・パンの深淵

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ペテル・パンの深淵

「絶対について行くからね」 「構いませんよ、じゃあ学校が終わったら一緒に行きましょう」  先日の約束通り、翠蓮は蒼慈の店に行くことにしたのだが、生憎と連絡先を交換するのを忘れていたことに当日気付いた。  交換したのは店名と電話番号と小さな地図の書かれた店の名刺のみ。交友関係の広くない蒼慈は直ぐ会える者としか次を結ばず、交友が広かろうと相手の熱量でまとまってきた翠蓮の悪い部分が重なった結果だ。  仕方なく店の電話にかけてみると、蒼慈とは違う、低く耳馴染みの良い男が柔らかに応対してくれた。どうやら蒼慈も私用の連絡先を交換していなかったと思い出し、話を通していたらしい。 「学校終わったら迎えに行くから待ってて、一人で行っちゃわないでね」  妹の憂那にも念の為連絡先の有無を聞いてみた所、持ってない、一緒に行くの一点張り。 「大丈夫ですよ、私は憂那と一緒にいられることが嬉しいので待ってます」 「っ、うん、」  勿論そんな可愛い憂那の独占欲を翠蓮が許さない筈がなく、話は円満に解決された。聞き分けのいい妹の久しぶりの我儘に、姉は愛おしさが爆発して抱き締める。 「愛裡さんとは今日も?」 「うん。あ、待ち合わせ変更って言わなきゃ……」  憂那は早速スマホをタップしてメッセージを送ったらしい。その様子を翠蓮がじっと見つめると、憂那は「何?」と首を傾げた。まあるい金色の目が、蜂蜜の塊のように甘く誘う。  翠蓮の胸中の気持ちを言葉にするのなら、恐らく安堵。 「良いお友達が出来ましたね」 「ともっ……ち、ちが、」  ゆっくりと手を伸ばし憂那の黒髪を撫でる。隙間から覗く肌は赤く火照り、触れれば火傷をしてしまいそうだった。  避けられる速さの翠蓮の手が躱されたことは、一度もない。 「普段の憂那なら待ち合わせをなかったことにするでしょう?貴方も私といる時間を大切にしてくれてますから」 「、う」  するりするりと撫でられる髪が、まるで喜びを歌うように艶を放っている。ゆるやかなウェーブを描くその髪を彼女達はいたく気に入っていた。大好きな兄の髪も、そうだから。  憂那は優しい手に触れられた所から溶けてしまいたくなった。姉が思うように、妹は姉といる時間が大切だった。誰にも邪魔されたくはない、入り込んで良いのは一番上の兄だけ。  そんな彼女だからこそ、今まで友と呼べる存在はいなかった。 「大切にね」 「……ん、」  翠蓮の言葉に、小さくもしっかりと頷く。照れると長い髪を寄せて顔を隠そうとするのは憂那の愛らしい癖だった。 ───そう、憂那は本当に愛裡を気に入っていた。 「(多分、ともだち)」  待ち合わせた改札を通る前、遠くの彼女と目が合った。ふんわり広がるミルクティー色の髪は優しい愛裡に似合っていて憂那は好きだった。いや、好きになった。  今までこれといって他人の髪色に興味を持たなかった彼女が。家族だけだった世界が、開拓される気配に怖気付く。 「(ともだちが、いいな、)」  仔犬のように喜んで走ってくる姿に憂那は目を細めた。合流すると呼吸を整えもせず「お待たせ…!こんにちは、憂那ちゃん!翠蓮さん!」と大きな声で言う。 ───自分とは違う素直さが、気に入っていた。  朗らかな体面とは裏腹に、意外と他人を招かない翠蓮がにこやかに受け入れていたのも大きかった。 「ほんっと、迷惑なの分かんないかな」  だから、最愛の姉と、新しい友人の顔を曇らせる要因が、鬱陶しくて堪らなかったのだ。 ───ばしゃり、  水のぶつかる音が店内に響いたのを、翠蓮は静かに見ていた。いつもの笑みを携えて、心動かされた様子は少しもない。 「っ、な、にすんの……!?」 「〜ッつめた、最悪!!」  見ず知らずの女二人が顔を中心に濡らして喚いている。キイキイと甲高い悲鳴が耳に付いて酷く不快感を誘う。  二人の前には、空のコップを持った憂那がいて、誰から見ても被害者と加害者は瞭然だった。 ───ああ、この濡羽色の少女は、憤っている。女達は何かをやらかしたのか。 「耳障りだったから」  そして憂那の返事で確定する。どうやら怒りに身を任せた美しい金色が悪らしい。  さあ悪い奴をやっつけろ。 ◇◇◇◇◇◇  ことの発端は目を瞑る必要も無いほどの少し前。三人は愛裡の案内で蒼慈の職場であるカフェ&バー【ノア】に訪れていた。  店長だと紹介を受けたのはネームプレートに黒崎とだけ書かれた男性で、愛裡が声を掛けるとどうやら蒼慈は運悪く買い出しに向かったと教えてくれる。 「もう少しで帰ると思うから待っていてくれ」  にこやかとまではいかないが落ち着いた笑みは大人の色気を漂わせている。柔らかい物腰と布上からでも分かる引き締まった体型に、女性客が多いと眉間に皺を寄せていた蒼慈を思い出し、翠蓮はひっそりと肩を震わせた。  此処【ノア】は変わった店で、カウンター席もあるが基本的にボックス席しか案内されない。それは主に人嫌い……いや、女嫌いな蒼慈の我儘であると知るのは一部のみ。 ───そして案の定、カウンター席に座った事で問題は起きた。 「また来てるあの子、いい加減蒼慈君も追い出せばいいのにさあ」 「ねー、狙ってますって顔に書いてんのにね」  侮蔑を隠す事もしない卑しい視線、思い上がりも甚だしい愚かな発言。  蒼慈目当ての女性客に、蒼慈狙いだと誤解されたのだ。───他の誰でもない愛裡が。 「、」 「気にしなくていい。ほっときなよ」 「愛裡さん注文はどうします?」 「あっ、えっと」  憂那が奥に視線のひとつも向けずぴしゃりと空気を断ち切ると、翠蓮はまるで何事もなかったかのようにメニュー表を取り出していた。  兄が必死に作っていた商品達の一覧が、すうっと冷えた指先に感覚を呼び戻す。 「……なにあれうざ」  わざと聞こえるように言う心の醜さは、どうしたものか。  女達は何度も店に来ているらしいが、愛裡と蒼慈が兄妹だとは知らないらしい。髪色は違うといえど顔はそっくりなのに、知能が低いと視力も落ちるのかと憂那は途端に可哀想に思った。 「(目も頭も口も悪く、顔もそこそこ、可哀想に)」  世界中の殆どの人間を敵に回す言葉は、辛うじて表には出されていない。周囲への配慮を覚えた憂那を褒めるように翠蓮が微笑むと、黒崎が空気を変える為に注文を取りに立つ。 「ご注文は?」 「アイスコーヒー」 「あっ、私はアイスココアで…」 「では私はウィンナ・コーヒーでお願いします」 「かしこまりました。愛裡、そんな顔するな蒼慈が悲しむぞ」 「は、はい」  黒崎は家族に向けるような慈しみの声音を残して戻っていく。牽制だと、分からせる行為だった。  ふと、愛裡がキラキラとした目で翠蓮を見ていた。不思議に思って首を傾げると「コーヒー飲めたんですね!?」と詰め寄られる。以前の喫茶店での苦いものが駄目という話を覚えていたのだろう。 「苦すぎなければ飲めますよ」 「すごいなあ…!憂那ちゃんもブラックで飲めるし…」  しょぼんと肩を落とす愛裡を見た憂那は特に何もいうことなくメニューを見つめている。薄情に見えるかもしれないが、それが独り言だと知ったから故のスルーだった。  けれど頭の弱い者はそんなこと分からない。 「…ね、聞いた?」 「聞こえた、マジなんでコーヒーも飲めない奴がノアに来てんだっての」 「男しか見てないからでしょ?黒崎さんにだって媚売ってるし…」  向こうにも聞こえているのだ、当然此方にも聞こえている。いや、聞かせてくれているのだろう。  三人が座るカウンター席の真後ろ、一番近いテーブル席にいて、声は甲高く、よく響く。聞こえない方が可笑しかった。  心無い誹謗中傷に愛裡は先程から萎縮しっぱなし、曲げられた背中は、美しくなかった。  トン、憂那の指が机を叩く。大きくない音だったので気付いたのは翠蓮だけ。 「ほんっと、男なら他所にもいるからそっち行ってくんないかな」 「他の二人も友達は選んだ方がいいよね」  憂那はゆっくりと、メニュー表から顔を上げた。 「は」  嘲りにも似た溜息が溢れる。それはそれは、無機質な響きを以って奏でられる機械音によく似ている。 ───ひとつ言っておくと、憂那は短気ではない。  最愛の兄は泣きたくなるくらい鷹揚で、最愛の姉翠蓮は鳥のように自由な人だ。  その妹である彼女も、直情的ではあるが言っていいことと悪いことの区別くらいある。 「鬱陶しい」  だからといって許せない言葉がない訳ではない。生憎と甘やかされた末っ子だ。周囲を反面教師にし怒られないギリギリを狙って動いている。 「ほんっと、迷惑なの分かんないかな……っ!」 ───ばしゃり、  水のぶつかる音が店内に響いたのを、翠蓮は静かに見ていた。いつもの笑みを携えて、驚きも、焦りも、心動かされた様子は一縷もない。  憂那が、流れるように立ち上がると抵抗の余地なく相手のコップを奪い、中のお冷をかけたのだ。それもぶち撒けるのではなく、ご丁寧に頭上から逆さまにして。 「っ、な、にすんの……!?」 「〜ッつめた、最悪!!」  見ず知らずの女二人が顔を中心に濡らして喚いた。反抗するように女達は憂那を睨み上げるが美人の真顔のなんて恐ろしいこと。  金色の瞳が冷ややかに、女の息の根を狙っている。 「耳障りだったから」 ───そして先の返事に繋がった。  怒りで顔を真っ赤にした女が掴みかかる勢いで立ち上がり憂那に寄ったが、当の憂那は怯むどころか自ら顔を近付けて煽る煽る。 「う、憂那ちゃん!?どどどうしたのっ!??」 「かなり怒ってますね、聞こえてなさそうです」 「なななんで!???わ、私なら別に…、」 「いえ、愛裡さんの為というか……彼女達、憂那が一番嫌がることをしたので」 「一番、嫌がること、ですか?」  小さな火種が忽ち業火になるのを愛裡は離れた位置から見つめるしかない。争いを止めたかったが、翠蓮に引き止められた。 「彼女達……いえ今向き合っている方じゃなくて、憂那に見下ろされてる女性が言ったでしょう?」 「え?あ、」  よくよく見れば「どこ見てんのよ!!」と捲し立てられながらも憂那はただジッとソファに座り続ける女を見つめていた。  女はひたすら恐ろしくて、立つことも弁解することも出来ないようだった。蛇に睨まれた蛙、大海を知らず。憂那も見下ろすばかりで何も言わなかったから余計に恐怖が増すのだ。 「でも、何がそんなに…」  愛裡が呟いてすぐ、厨房から黒崎が出てきた。 「何の騒ぎだ?」 「申し訳ありません、私の妹がお客様と騒ぎを起こしまして」 「ん?…ああ、何だ彼女達か……」 「黒崎さん知ってるんですか?」  女のヒステリックな声は届いていただろうに。焦る様子もなく注文の品を持ってきた黒崎に翠蓮が謝罪する。だが黒崎は憂那に噛み付く女性客を見遣るとやれやれといった風に首を振った。 「蒼慈目当ての二人でな、何度か他客に注意されているが最近はああいう女性客が多い。注意しても次から次に新しいのが来るんだ……寧ろやっかみの対象にさせてしまってすまない」 「お兄ちゃんも黒崎さんも顔がいいから……」 「大変ですね」 「そろそろ止めないと皿が割れそうだな」  胸ぐらを掴まれている憂那だが、やはり視線は目の前の女には向いていない。それが女の怒りを助長させていることすら、憂那にはどうでも良かった。  愛裡にはどうして憂那が怒っているのか分からない。友達が貶されて怒るのなら分かる、だが翠蓮はそうではないと言った。お手上げだった。 「あ、の翠蓮さん……どうして憂那ちゃん、あんなに、」  震える指先で翠蓮の服の裾を引きながら、愛裡は眉を下げる。 「『他の二人も友達は選んだ方がいいよね』」 「え、」 「座ってるお嬢さん、そう言ったでしょう」  翠蓮は一言一句覚えていた。蔑視の声音まで完璧に、復唱してみせた。困惑を表した愛裡と興味深そうな黒崎を見て、くすりと笑う翠蓮は悪戯が成功した子供のように可憐だった。 「憂那の選択を、過ちかのように言ったでしょう」 「それで…?」 「あの子は誰かに何かを決められることを心底嫌悪しています。あの子の行動全ては、あの子が選んだもので誰かに強制されたものではありません」 「…成る程、だからか。上から目線の適当な罵詈雑言だとしても許せなかったと」  「ええ、許す理由も感じられなかったのでしょう」  完膚なきまでに正解だった。憂那はあの言葉が心底不快だったのだ。  翠蓮は憂那の思考回路が手に取るように分かる、だから「偉いですね」と呑気に言える。その真意が「まだ、手を出してなくて、偉いですね。」なんて、それこそ長兄にしか分からないだろう。  憂那は何も言わない。耐えかねた女が、悲鳴のように叫ぶ。 「何だって言うのよ!!!?」 「言ったでしょ、耳障りなの」 ───黙っていて。  音は無慈悲に、女の機嫌を伝えてしまう。怒りも、恐怖ですら。 「っ、男狙いのブス!ビッチ共が……!!」  もう耐えていられないとばかりに震える声が、悲鳴のように高く、醜い言葉を吐き出した───刹那。 「ほお?」    女の暴言は明らかに愛裡と憂那と翠蓮に向けられていたが、続けられることはなかった。  獣の忍び寄る足音、少年漫画であればきっと殺気と呼んだのだろう。鋭く冷たい空気は痛くて、肺が裂けそうな威力を持っている。ついには憂那に掴みかかっていた女も狼狽えて何も言えなくなり、震え出す。 ───皆の視線は憂那の背後の、一言零しただけの存在へと向けられていた。 「どこの、だれが……何?」  あおい、青い目が、氷の瞳が女達を睨み付けている。それ以上口を開けば、殺される。そんな、空気。  お上品に牙を隠して笑う獣、買い物から帰ってきた蒼慈は一目で状況を理解した。  また自分の所為で面倒が起きたのだと、それだけであるならば蒼慈が責任を取ればいい。しかしそれでは終われなくなっていた。  憂那が手を出していたことだとか、翠蓮が止めない程のことだとか、連ねるべき思考は色々あった。 あったが、それも最愛の愛裡の、泣きそうな表情を見てしまえば全て消え去っていた。 「なあ、言ってみろよ」  聞こえた女達の言葉は憂那達三人に向けられたものだと分かっていたが、それでも蒼慈の中では「愛裡の心を傷付けやがったクソ女二人」という感情しか残らなかった。 「男狙いの、何だって?」  至って冷静な思考で下された、当然の帰結。事実を確かめるでもなく、ただ己の感情のまま誰かを貶める酷い女達を。 「(許す理由なんてねェ)」 「わ、」  蒼慈が憂那の手を引き翠蓮達の方へ向かわせたことで女性客の対面は自然と彼の役目となった。  女達は、やらかしたという恐怖心と、今すぐにでも逃げ出したいような羞恥心に襲われていた。  何故なら先程の憂那の所為で、化粧はボロボロなのだ。見ていられない有様だと自分でも分かるだろう。  そんなお粗末な姿で蒼慈の前に立つのは、とても、耐えられなかったらしい。そういう感情はあるのかと、奇異の眼差しが向けられる。 「そ、そうじ、くん…」 「ちが、ちがうの、」 「何が違ぇんだよ、言ってたろビッチだかなんたら」  女が震えていた手で顔を隠すと、不意に別の影が蒼慈の隣へと並んだ。 「『男狙いのブス!ビッチ共が……!!』ですよ。ふふ、意外と似てませんでした?」  くすくすと微笑みながら九官鳥の真似事をしたのは言わずもがな翠蓮だった。  まるで学芸会の演し物とでも言わんばかりの軽快さで。敵地に於いて背中を任せられる戦友と再会出来た歓喜の幻想で、不思議と蒼慈の心は躍る。 「似てたわ、最高の特技だな」 「連発は出来ないんですけどね」 「っ、」  女達は、今度こそ言葉を失くした。  緑の目、鮮やかに。自分達にない色がまあるく光っている。並んだ、自分達とは違うような存在に身が竦む思いだった。 「妹が申し訳ありませんでした」 「ひ、」  摩訶不思議な空気を纏う女──翠蓮が謝罪を口にしながら自身のハンカチで女の水滴を拭う。その瞳は慈愛に満ちていて、ほう、と吐息が漏れるほど清廉。  しかし女の口からは引き攣った悲鳴が漏れて、蒼慈と憂那の目は細くなる。 ───彼女達は勘違いをしていた。好きな人、蒼慈の前で無様な姿を見せたことが恥ずかしいのではなかった。 「でも、騒ぐ場所は弁えましょうね」  そもそもこの場で、彼等に見られること自体が、耐え難い苦痛と恥辱に塗れたものだったのだ。  黒崎も蒼慈も言動は兎も角、世の女子が放っておかない美丈夫で、その妹である愛裡も血の繋がりを感じる容姿ではないが可愛らしい。  女達が愛裡の容姿と扱われ方に嫉妬していたのは明らかだった。だから醜悪な感情に任せて毒を吐けた。  しかしそれも、上記の三人とはまた格の違う、そんな美しさを前に脳は逃走を告げる。  憂那は世界中から愛されるお人形のような顔立ちで、余計な不純物は一切ない鋭い耽美さを。  姉の翠蓮は、女神が受肉し降臨したのかと言わんばかりの美麗な尊顔で、微笑みを持って凡愚を殺しかねない鮮烈さを持っていた。 「さあ、綺麗になりましたよ」  美しさの暴力、暴力の化身。そうとしかいえない存在を前に、女達は己の無様さを見せつけられた。どれほど化粧で変身しようと拭えない、心の臓の裏側の、羨望、憎悪、悲哀が蠢く。這いずり回っても足を掴まれる。 「っ、なん、なのよ……っ、」 「ねえっ、もう帰ろ、」  翠蓮の優しさ……含みのある優しささえも受け止められず、女達は目に涙をたっぷりと溜めて店を後にした。財布から出したお金は憎悪からか恐怖からか、ぐしゃりと皺が寄り黒崎の手に預けられる。  走って行く後ろ姿を硝子越しに見ていた愛裡が、慌てて翠蓮と側にいた憂那の元に寄り、頭を下げる。 「ごめんなさい、本当に、何度も……っ、」 「何で貴方が謝るの」  謝罪の声は揺れていて、心底申し訳ないと思っているらしかったが、そんな言葉を憂那はばっさりと切った。二の腕を掴み、無理矢理顔を上げさせると金色の瞳が愛裡を射抜く。  は、と無音が漏れた。いや、奪われた。 「私は私の為に手を出したの、貴方を思ってじゃない。勘違いしないで」 「っ、うん、うん……!」  つんとそっぽを向いて言った憂那に、愛裡はにやける口元を隠せなかった。 「(嬉しい、嬉しい!)」  兄を通してではなく、愛裡自身を見てくれている。  そして嘘でも愛裡の《為に》なんて言わない潔さ。鮮やかなまでの芯の強さ、それは彼女が欲してやまないものだった。この姉妹は、それを持っている。  憂那がいるお陰で分かりにくいが、翠蓮だって「妹が」と謝罪しても決してその妹の行動を止めなかった。咎めなかった。ということは、概ね憂那と同意見だったということ。 「キレてたのか?」 「怒ってはいませんでしたが、許すか許さないかは別でしょう?」 「たしかに」 「可愛い妹への暴言を許すほど、彼女達の好感度は高くなかったので」 「何処まで高けりゃ許すんだよ」 「兄さんなら」 「そりゃあいいな!」  とどのつまり、まったく、欠片も、許す気はなかった、と。  蒼慈はカラリと笑った。妹が傷付けられ、面倒ごとが起きた後とは思えない程晴れやかな笑み。  静かになった店内で、改めて女性組が席に座ると暫くして様々な料理の乗ったプレートとパンの入ったバスケットが運ばれてきた。不思議そうに全員が首を傾げれば、蒼慈はまた愉快そうに「礼と詫びだ」と笑った。  きらきらとした笑みが彼の行動を許して、手が伸びる。 「息がしやすそうで、よかった」  グラスを磨きながら零された黒崎の呟きは、換気扇が吸い込んだ。
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