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第1章 ミスト・ホワイトの勧誘
簡素な椅子だけが用意された白い部屋に人影が二つ。微動だにしない横顔は、まるで大切な誰かを待っているかのようだった。
【Q.貴方にとって最も大切な人は誰ですか。】
「妹」
「家族」
窮地には変動するようなくだらない質問に、間髪入れず答えた男と女の一人ずつ。一ミリの迷いもない音はひたすらに平坦で、あたかも当然だと言わんばかりに真っ直ぐだった。髪の一束も揺らさずに返された音は、彼と彼女には真実でしかない。
二人は前だけを見つめていた。
隣に並び、僅かでも横に倒れればぶつかってしまうような距離感で。首を捻れば三十センチと離れていない夢の中で。それでも二人の視線は交わらなかった。その視線を向けるべき相手も、待っている相手も、二人は正しく理解していたからだ。
◇◇◇◇◇◇
「……その手、どうした」
「え?……ああ、」
先に気付いたのは男の方だった。
彼は世界で一番大事な女の手首に残された痣に、麗しい美形を修羅に変え憤る。朝、車で送った時まではなかった筈だ、そして彼女のバイトも休み。となると大学か、帰りの道すがらか。なんにせよ許せるものではないと、焦る女に詰め寄った。
「ちょっと帰り道で絡まれちゃって…」
「何処のどいつだ顔覚えてるか?明日からは迎えも行くわ今警察に連絡すっから特徴と襲われた時間を教えろ」
「うわわっ、」
女の肩を掴み、前後に揺らしながら詳細を聞こうとする男の目にハイライトはなかった。勢いよく捲し立てる舌の回転は素晴らしいが、その形相の恐ろしさは凄まじい。男女という圧倒的体格の差が憎らしい。
少しして脳を揺さぶられる感覚に酔った女が声を上げた。
「ちょ、《お兄ちゃん》止まっ…落ち着いてってば!!」
キンッと響いた女の声が部屋に反響する。大事な大事な《妹》の頼みならいつだって聞いてきたが、全てを叶えてきたわけではない男─── 蒼慈が手を止めた。
「愛裡、俺は落ち着いてる。だから早く答えろ」
「もー!何も落ち着いてない!!」
ぽこぽこと胸板を叩くが全く痛くない、寧ろマッサージより力の弱い妹───愛裡が、蒼慈は尚の事心配になる。膝を突き合わせ見つめ合うと、蒼慈はふと違和感を覚えた。いつもの申し訳なさそうな表情ではない。話したい、誰かに聞いてほしいとうずうずしている口元は珍しかった。
「……何かあったか?」
「わ、分かる!?」
「んで嬉しそうなんだよ…」
えへへと頬に手を当てて笑う妹は、蒼慈の身内贔屓なしにしても可愛らしい。というよりこの二人、白勝蒼慈と愛裡の兄妹は、容姿が素晴らしく整っているのだ。
指通り滑らかで痛みを知らない毛髪は、光に触れると輝く環冠が授けられ、十人中殆どの人間が振り返るような目を惹く容貌は、よく面倒ごとも引き寄せた。私生活にまで影響を及ぼしていたナンパや勧誘は後を立たず、今も変わらず蒼慈の頭を悩ませている。蒼慈に付き纏う影が減っても、年々可愛らしさと美しさに拍車をかける愛裡の方に増えていてはキリがない。
蒼慈と違って優しい性根の愛裡は極上の餌にでも見えるのだろう。飢えた狼どもが唸りを上げるたび、それを噛み殺すのは兄の役目だった。しかし兄が妹を心配して問い詰めるたび、愛裡はいつも申し訳なさそうな顔をしていた。だが今日はそれがない。寧ろ興奮気味に頬が赤く染まっている。
「(まさか、男に助けられて惚れたか?)」
予想し得るありがちなシチュエーションに眉が寄るのを感じ、必死に掌を握り込んだ。
「あのね、帰り道で大学の先輩に告白されたんだけど、」
「学部とフルネームは?」
「そこじゃないの!!で、告白は断ったの、ちゃんとはっきり……でも『ありえない、付き合ってくれるまで離さない』って腕掴まれて」
「携帯どこやったっけ…」
「私が持ってますー!もう、警察にかけようとしたでしょう!?」
「う、」
さすが気心知れた兄妹だ、蒼慈がどれだけ暴走しそうになっても愛裡にはお見通しである。愛裡は兄のこういう話を強引に解決しようとする所に「愛されている」と感じながら「心配しすぎ」だとも思っている。けれどそう言ってしまえば蒼慈は「そんなことない」と返すことが目に見えているので言わないだけだった。これで自分より五つも上なのだと、愛裡は苦笑うしかない。
「……で?」
「助けられたの!」
「ほお」
警察に乗り込むことを断念した蒼慈が、両手を上げながら「どんな奴だ」と続きを促した。妹の話を聞いてあげたい気持ちと、何処の馬の骨に触られてんだという憎悪と、自分の代わりに愛裡を助けた存在への嫉妬で肌が粟立っていた。
「とっても可愛いくて綺麗な女の子に!!」
「……は?」
二人で住むには大きすぎる部屋の中に、何とも間抜けな音が落ちていく。想像通りの展開で、けれども最大の想定外に蒼慈は瞠目した。愛裡の高音に頭がやられてしまったのか、蒼慈は脳が揺れた感覚に嘔吐きそうになった。
「おんな……?」
「そう!長い黒髪でね、多分ちょっと外国の血が入ってるみたいなの、蜂蜜色っていうか綺麗な金色の目をしててね、」
それは、愛裡の脳内を全て占領してしまうくらいの、眩い初めましてだった。目を閉じて少女の形をしていたヒーローに思いを馳せる姿は正に───恋する乙女の美しさ。
うっとりと記憶を語る愛しい妹に、蒼慈は安堵とも心配とも取れる微妙な表情しか返せなかった。
「捲し立ててくる男の人が嫌だなあって思ってて、でもまあやっぱり見てる人達は誰も助けてくれなくて、走ったら逃げれるかなって思ってたらその子が目の前に現れて、男の人を写真に撮ったの!それで『警察に提出する』って!!もう、もう驚きと流れの速さにぽかんってしちゃって恥ずかしくって、」
止まらないマシンガントークは興奮が頂点に達した愛裡の十八番である。主に兄からの好みドンピシャな誕生日プレゼントであったり趣味に励む時にしか発揮されたことはなかった。だというのに、彼女の十九年の人生全てを見てきたと自負している蒼慈にとって今、衝撃的な現実が囃し立てている。
「(男じゃない分マシ、だが……大丈夫か……?)」
だがそれは同時に不安要素の塊でもあった。
何度か繰り返すがこの白勝兄妹は美男美女の分類に入る。だが浮いた話はそうそうない。何故なら生まれ落ちた場所が最悪で、蒼慈が小学生に上がって二年もしないうちに家庭環境は崩壊していたからだ。親元を離れたらい回しに親戚中を幼い妹を抱えて渡る。止めてくれる優しいお人よしは現れず、気付けば蒼慈はやんちゃでは収まらない部類にいて警察の世話になることも多かった。売られた喧嘩は買う、妹に害なそうとした奴は半殺し。
故に蒼慈と愛裡に近付く者は限られていた。
(何か企んでる奴なら容赦しねえが)
妹を利用して兄に擦り寄ろうとする女は意外といた。平和な男より危険な男を好きになる層は、実は蒼慈達が思うよりずっと多いのだ。しかしそんな女達は《妹に害》の分類なので、どんなに猫被られようが二月もすれば本性を曝け出し「妹より私を愛して!!」と糾弾してくるのを知っている為眉が寄る。
だがここで新たな問題が浮かんだ。
───逆に、ただ純粋に、妹を助けた女だとして、それはいい。問題はそこではない。
「(問題なのは…)」
「それでね、お礼がしたいから名前と大学も勢いで聞いちゃって、今度また会えるの!」
「……ほう」
愛裡の、件の少女への熱量が、何とも言えないことだった。《女》と聞かずに話を続けられていたら、蒼慈は確実に「妹を誑かしたのは何処のどいつだ」と殺意で満ち満ちていたことだろう。
「……顔真っ赤だぞ」
「えっ!??あ、いや…だって、つい、」
───かっこよくて。かわいくて。はじめてで。
ぼそぼそと縮こまって喋る愛裡に、碌な人間が寄ってこなかったのは十中八九蒼慈の所為だ。もし、もしも過去の行いやあれそれの所為で、最愛の妹の趣向がねじ曲がっていたとしたら。
「どうすっかな………」
白勝蒼慈、二十四歳。
妹の恋愛事情、同性愛者疑惑にマグカップを取る手は震えていた。
「(いや別に偏見はねえけど)」
今日の夜は長そうだ。
◇◇◇◇◇◇
「やめ、離してください…!」
切羽詰まった声音に、少女は足を止めた。
商店街真ん中で起こっている小さな騒ぎ、どうやら年若い男女が揉めているらしい。大学の帰り、バイトに向かう途中だった少女───憂那はその光景に眉を顰めた。
「なんでだよ、お前俺のこと好きなんだろ!?」
「好きじゃありません!い、一度もそんなこと言ってないです!!」
「いつも熱い目で見てくるだろうが!」
「見てません!!私先輩の名前も知りません!!」
「嘘ついてんじゃねえぞ!!」
痴話喧嘩であるなら気にすることもなかったのだが、どうやらそうではないらしい。傍観していた通行人達も薄々男の一方的な感情だなと理解し始めていたが、誰しも面倒ごとに関わりたいわけがない。男が少女の腕を乱暴に握って距離を詰めても動く気配はなかった。
それが憂那には嫌だったらしく、大変気分が悪いと行き先を変更した。このまま素通りすれば、彼等と同じになる。それは耐え難い屈辱に思えたのだ。
「俺が付き合ってやるって言ってんだ!お前は頷けばいいんだよ!!」
「っ、痛、」
───汚い。言葉にはならなかったが、思考と脊髄は憂那の本能に忠実に従い、細く伸びる手と足が動いた。
「警察に」
勢いに任せた行動で、計算しつくした演出で、憂那は二人の間に難なく入ると―――パシャリ。スマホのカメラで男の顔を真正面から撮影する。世間一般では褒められない盗撮行為でも、止められる人間はいなかった。
「提出するね、この手の痣も」
「あ、」
「なっ、何だお前っ、!?」
黒髪を翻して現れた唐突な乱入者に、男は狼狽えて掴んでいた女の手を離した。胸の前で指組み震える女の手を優しく取ると、憂那はその手首に残され赤黒く変色した跡も写真に収めていく。男は分が悪いと感じたのか、ジリジリ距離をあけ始めていたが、完全に逃げる様子はない。まだ勝機があると思っているのか、それともケモノの勘でさえ消え失せているのか、鞘に手をかけていた憂那は白けてしまう。
「馬鹿な男」
「え…、」
「この人の名前分かる?」
「い、いいえ…同じ大学の、先輩としか…」
「何処の大学?」
「あっ、えっと、」
憂那の問い掛けに少女は口籠もりながらもしっかりと答えてくれていた。怯える様子はあっても守られることには慣れているような少女に憂那は目を細め、視線をずらすと真っ直ぐ男を見つめた。男は案山子の真似事をしていて、見事に影を薄く空気に馴染んでいた。
「妄言、ストーカー行為、暴行で構わない?他には何かした?」
「な、なに、なんなんだよ、」
「とりあえず近くの交番に行くけど貴方も行く?」
「はっ!?」
ことりと首を傾げ尋ねられているだけで、責めているわけではない。なのに男はじわりじわりと自分の首が絞まっていくような感覚に囚われて、呼吸がままならないようだ。
不思議そうに覗き込んでくる金の瞳が、目の前にいる自分より小さい存在である憂那が、彼は酷く恐ろしいように感じた。
「ふ、ふざけやがって…っ、」
「あ、逃げた……」
「今逃げても、もう学校も顔も分かってるのに、変なの」
踵を返し路地に入っていった男の背中はとてもちっぽけで、足は他人の物のように覚束ない。僅かなタイルの段差に泣かされるのも時間の問題で、憂那は消えていく男を最後まで見送るとまるでダンスのターンのようにその場で方向転換し、ぽかんとしていた少女を振り返った。
「警察に行く?」
「い、いえ、少し絡まれた程度なので…」
「なら私の兄の知り合いが警察官だからその人に相談だけしておくね。注意で終わっても何もしないよりはいいと思うから」
「えっ!?えっと、あの、いいんですか…?」
憂那は自分が出した提案に戸惑うだけの少女に少しだけ目を奪われる。憂那は自分の淡々とした喋り方が反感を買いやすく、誤解されやすいと知っていて使っていた。どんなに心配をしていても、言葉や表情に色を乗せるという生き物なら過半数が出来ることが彼女には難しい。優しが伝わりにくい、という棚に完結した兄と姉の適応能力が可笑しいのだが、その冷たい物言いに少女は戸惑わなかった。
憂那は真面目か不真面目かで分けたら真面目に入り、けれど楽しいことに夢中にならないわけでもなかった。
「良くないなら言わない。ああいうの、慣れてるんだね」
「!」
だからこそ、少女の慣れ切った態度に興味を持つ。好奇心もひとしおに付け加えられた一言で、少女は硬直した。図星だったのだろう、ミルクティー色に染められた肩までの髪を気まずそうに触れて黙ってしまう。
「何でもいいけど、避けれる面倒事は避けなくちゃ、守ってくれてる人の手間が増えるだけだよ」
「あ、なたも、慣れてるんですか?」
「貴方ほどじゃないと思うけど」
少女は先程から視界に違和感を覚えていて、正直お話どころではなかった。何だか如何にも、世界が煩いのだ。眩しくて喧しい。特に彼女の目には、憂那を中心に光の粒が充満しているように見えていた。てっきり憂那の容姿が素晴らしく美しい人形のようだからかとも思ったが、本人にも正解は見つけられそうになかった。
ただ何となく、少女は己の恩人の名前が知りたくなった。
「助けてくれて、ありがとうございました!!わ、私は白勝愛裡と言います、貴方の名前は…?」
「私は───……」
平日の、昼下がりの、最初の出会い。
「……なるほど、そんな事が」
微睡むような表情で、愛しい子の声を聞いていた女はひとつ瞬きを零す。長いまつ毛に縁取られた緑の瞳が、緊張した風の憂那を捕まえて柔らかく笑んだ。
「偉いですね、憂那。怒鳴りつける男の人の前に行くのは怖かったでしょう?」
「別に、平気。見てて気分悪かったから動いちゃっただけだし」
「そう。でも相手の女の子は感謝してるみたいなので誇って良いのでは?」
「が、んばる…」
「はい、頑張ってね」
何を頑張るというのか。それでも憂那が空気に晒されている外皮全てを真っ赤にして頷いたことで問い掛けは意味を成さなかった。
「今日の晩ご飯は何が食べたいですか?」
「……姉さんの、ハンバーグ」
無表情がデフォルトな少女の感情を揺さぶり微笑むこの女は、憂那の姉で、後に気付いた女でもある。名前は翠蓮。
良い意味でも悪い意味でも似ていない東雲姉妹は、この広い部屋の中これまた大きなソファに窮屈そうに寄り添い座っている。
「好きですもんね、じゃあ今日は和風にしましょう」
「、うん」
「買い物と作るのと、手伝ってくれますか?」
「うん…!」
恥じらい俯けられていた顔を勢い良く上げて、憂那は喜んだ。それを見て翠蓮も、美しい緑の瞳を溶かしていく。
美人で何でも出来るような姉に頼られることが、嬉しくてたまらないらしい。尻尾があれば残像さえ見えただろう。
「(姉さんに頼られた…!)」
憂那は献身的に兄と姉の為になりたがった。それはもう盲目的に二人を愛しているが故の行動で、それはあまりに当然のことのように思えたが、ひどく依存的にも見えた。
けれどそれを咎める者は誰もいない。好んで口を出したがる者など極僅かで、何を言われようとも気に留めない彼女達には無意味な帰結でしかないからだ。
「明日は兄さん帰って来れるみたいなので買い物の荷物が多そうですね」
「に、兄さん帰ってこれるの!?」
「はい、連絡があったので。」
「〜〜!!」
何故なら此処の家族達は、全員が全員を愛している。余所者の意見など耳に入っても通り抜けていく、なんて次元の話ではない。そもそも雑音を許容する心など持ち合わせていなかった。
兄の帰宅を嬉しそうに語る翠蓮と、更に金色の目をキラキラさせ熱の上がった両頬に手を添える憂那の姿が全てを物語っていた。
「楽しみですね」
「うん……!」
兄に会うためにピッタリな服をと自室にパタパタ移動していく憂那を見て、翠蓮は緑の瞳を甘く緩めた。
温かな眼差しのまま、彼女自身も兄の好物達を考えながら出かける支度に移る。翠蓮は五つ下の妹が可愛くて仕方がないのと同時に、これまた五つ上の兄を敬愛していた。
「(天ぷらは絶対に作らないと……煮付け用の魚は明日鮮魚店で買うとして、ああ野菜は隣町のスーパーが安かった筈)」
翠蓮は色素の薄い茶髪に緑の目の美しい女だ。その容貌は憂那が誇らしげに自慢するのも分かるくらい整っていて、何より彼女の柔らかな笑顔と態度は人の懐にすんなり収まり受け入れられた。
悪く言えば危機感が薄いともいうのだろうがそのことで苦労したことは一度もない。穏やかな女性、淑女という言葉は彼女の為にあるようだった。
しかし頑なというか要領が良いのか、他者とゼロ距離になることはない。言葉遣いもそのひとつ。なかなかの家柄に生まれたが故か、丁寧な物言いは家族相手にさえ外れないけれど、それで兄や妹が寂しい思いを欠片もしていないと知っているので直されることなく此処まできた。
───来てしまった、とも言う。
お金、家族、住まい、仕事、友人……生きる為に必要な物は数多くあるこの世界、どれもこの人間社会では必要不可欠な物達だ。
───それでも彼に、彼女に、他はいらない。たったひとつ、一括りがあればいい。
足場の悪い湿地帯も、異臭漂うゴミ山の麓でも、人を狂わせる舞台の上でだって。それだけがあれば、何処までも行ける気がしていた。繋いだ手を離さなければ、永遠に進む足を止めることもない。
彼等という狭い海の魚達は、もうとっくに水の中の幸せを知っている。
これは、そんな兄である男と姉であり妹である女が出会ったら、何処に行き着くのか。
そんな話である。
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