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第十一話
一週間後の金曜日。
菊は早朝のコンビニバイトを終えると、唯一持っている濃い灰色のリクルートスーツに身を包み、ヒールが高めのパンプスを履いてまっすぐ銀行へ向かった。
菊はこの日、銀行に融資を取り付けるための商談の予約を入れていた。
「ん~、そうですねぇ、一応書類の方は精査させていただいたんですけどねぇ、」
銀行員の、耳障りなほど甲高い声は語尾がいやに間延びする。その銀行員は、その声に似つかわしくない白髪交じりの髪を無造作に後ろで一つに束ねていた。
そして感情の感じられない笑みを浮かべて、菊の書類を菊の前にそっと置いた。
「………」
菊はその書類を嘆息混じりにじっと見つめた。
肩は少し沈んで、落胆の色がにじむ。
そんな菊に同情の眼差しを向けることなど一切ない銀行員は、張り付いたような笑みを浮かべたまま、正社員でもない菊は融資を受けるための審査に通らなかった旨を事務的に告げた。
(…そんなこと、知ってたよ。…努力は裏切らないとか、為せば成るとか、そんなのはホント、言うは易しだよね。)
銀行から歩いて帰る道すがら、コンビニで温かいキャラメルマキアートを買った。小さな呑み口から立ち上る甘い香りが、僅かばかり菊の心を慰める。
一口口にした。
少し苦いなと、コーヒーが苦手な菊は力なく笑った。
※ ※ ※
翌土曜日。
菊はいつもよりもさらに重い足取りで仕事場に向かう。
するとスーパー中松の入口付近の一角が、白い防音カバーで覆われていることに気がついた。
若干有能さに欠ける雇われ店長から何も聞かされていなかった菊は、首を傾げながらも仕事の支度するため、事務所に入る。
入ってすぐ左手の従業員用掲示板には、【店内一部改装のお知らせ】のプリントが貼ってあった。
(……ん?)
木曜日にはなかった気がしたが、そういえば木曜日に掲示板をしっかり見た記憶のない菊は、改めてプリントをまじまじと読んでみた。
「えっ、…嘘でしょ。」
そして絶句した。
そこに書かれていたのは、スーパー中松に隣接するように新規開設される【コインランドリー『LittleMermaid』】の改装工事の案内だった。
菊の目に、怒りに近い感情が渦を巻く。
コインランドリー『LittleMermaid』は、『ころりん』跡地に立てられたコインランドリーと同じ会社のチェーン店だった。
※ ※ ※
スーパー中松惣菜コーナー作業場。
黙々と大量の唐揚げを揚げていた菊の背後で、二ノ宮と、二ノ宮に迎合するパート従業員が、いつもの二割増しのテンションで笑いながら作業している声を、菊は聞くでもなく聞いていた。
「え、あの人、『藤代』の社員だったの?」
「みたいですよ。現場に来てるところを山村さんが何度か見たんですって。」
「見たんじゃなくて見に行ったんでしょうに。でもさすが山村さんね。どこでもでしゃばって、元気ねぇ。彼女、もう60近いのに、ちょっと恥ずかしいんじゃないかしら。」
「ですね。でその時『若君』、入店証と『藤代』の社員証を下げてたらしいんですよ。」
「なら、ちょくちょくこっちにも来るかもしれないわねぇ。」
ふふっと笑った二ノ宮はちらりと菊を見たが、背を向けてフライヤーに専念していた菊は振り返らない。
「………」
二ノ宮は、聞こえないほど小さく舌打ちをした。
「でも浮かれて仕事に支障をきたさないようにしないといけないわね。話しかけられるとすぐ舞い上がる方もいらっしゃるし。」
そして二人はクスクスと笑い合った。
「…………」
菊はただ黙々とフライヤーに鶏肉を投入し続けた。
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