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第十二話
大手商社『藤代』は、創業当初、工業用の洗浄液を作る小さな町工場だった。
しかし現在、その事業内容は様変わりし、規模を拡大させ、全国に約1万7000店舗をチェーン展開するコインランドリー大手として名を馳せていた。
藤代のチェーン加盟店はコインランドリー『LittleMermaid』として稼働している。その外観は特徴的な赤で彩られ、無機質な四角いだけの店舗。にもかかわらず、店内は落ち着いた雰囲気のオフホワイトで現れ、随所に観葉植物を配し、すべての作業台は大理石を思わせる光沢を放って抗菌コーティングされていた。
更に店内の一角にはフリマアプリ用の撮影コーナーが設置されており、無料で使用できる梱包用のラッピングペーパーも充実している。
そんな主婦のニーズに沿ったサービスが人気を博し、藤代はコインランドリー業界では名の知られた大手となっていったのだ。
島津暁月は3年前、27歳の若さで全国展開する藤代の西関東一帯のエリアマネージャー(GM)に抜擢された。他のGMの平均年齢が40前後であることと比べても、異例の早さでの昇格だった。
当然、他のGMたちも腹に一物据えかねるところもあり、特に直情型で年配のGMに絡まれることはしばしば。だが柔和でありながら冷静沈着な島津に、頭の固くなったGMなどは到底太刀打ちできるはずもなく、ぐうの音も出ないほど説き伏せられることも多々あった。
故に妬みやっかみ全て引っくるめて、島津は社内で一目置かれた。
そんな島津ではあったが、通常業務の管理職としての責務とエリア拡充のための新規開拓、各店舗のオーナーたちの不満解消のための取り組みから、果ては各店舗の備品の在庫状況まで、その多忙さは計り知れなかった。
一週間のうち、自宅に帰るよりも、各地域のビジネスホテルに泊まる日の方が圧倒的に多く、繁忙期ともなると、一ヶ月以上自宅に帰れないことなど当たり前。
そんな日々が続き、さすがに若い島津といえども、疲労に負けて下を向く日が増えてきた。
その日も仕事が立て込み、予定が大幅にずれ込んだため、明日の始発で一度本社へ戻らなくてはならなくなった。仕方なく、急遽いつも利用するビジネスホテルではなく、小さな町の駅近くのビジネスホテルにチェックインした。
夕飯でも買おうとホテルを出て、コンビニに向かっている途中、不意に、その小さな町の小さな弁当屋から元気な女の声が谺し、島津は足を止めた。
「あー、ごめんなさい!もう売り切れちゃったんですよー!あ、ちょっと待って、おむすびならイケるかも。紀子さーん、ちょっとお願いしてもいいですかぁ」
底抜けに明るく、だが忙しない声は、島津の頬を緩ませた。
そしてふと、店舗のガラスに視線を投げると、暗がりの中でうっすら笑っている自分が写っていた。
街灯に照らされて立ち尽くし、島津は今、自分が久し振りに営業以外で笑っていることに気がついた。
「ははは、」
無機質で冷たい男だとよく言われる。
感情が欠落しているのではないかと、自分でも思うときがある。
「………」
島津はしばらくその小さな弁当屋『ころりん』を眺めていた。やがて『ころりん』の店頭の明かりが落ち、のれんを片付けるべく女が店の外へと出てきた時、
「あの!」
島津は咄嗟に声をかけていた。
女は「はい?」と明るい笑顔で島津を見上げた。
島津は自身の行動に驚き、内心ひどく動揺していた。だが表情が表に出ないため、女に気づかれることはなかった。
「あの、おむすびを、2つ、頂けますか」
「あ、ごめんなさい!もう全部売り切れたんですよ!せっかく来ていただいたのに、申し訳ありません!」
女は深く頭を下げた後、にっこり微笑んで店内に戻っていった。
「…俺は、どうして、」
『ころりん』の商品が売り切れていたことは知っていた。なのに声をかけた自身の奇行。
多忙のため正常な判断ができないほど疲れていたのだろうかと島津は強い自己嫌悪に陥った。
それからこの地区に来る水曜日は、必ずあの駅近くのビジネスホテルに泊まった。そして夕食は必ず『ころりん』で買った。
だが、女は当然島津のことなど覚えておらず、毎度、他の客と同じ対応で自分の弁当を包んでくれる。
そのおよそ2年後、島津に本社より弁当屋『ころりん』買収の命が下った。
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