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第十六話
あの日から、『武田モータース』には行っていない。
キッチンカーの試乗に出た日、菊の戻りが遅かったため、心配した松原が武田社長に相談。二人は小一時間ほど小さな町を軽トラックで探して回ったのだと、後に父親から聞いた。
申し訳ない気持ちで一杯だった。
だが同時に、菊の心に今も重くのし掛かっているのは、自分の強いこだわりが『ころりん』を追い詰めていたという事実。
(もう、軽々しく復活させたいなんて、…言えない。)
菊は、いつものように、スーパー中松惣菜コーナー作業場にてフライヤーで鶏の唐揚げを揚げながら、強く唇を噛み締めた。
※ ※ ※
仕事に向かうときは、スーパー中松の裏口から入店するようになった。帰る時もまた然り。
スーパー中松入口付近で行われているコインランドリー『LittleMermaid』改装工事の進捗状況に触れる機会を避けるためだ。
しかし、どれだけ菊が見ることを避けていても、惣菜コーナーの他のパート従業員たちにとって関心の的である以上、嫌でも耳に入る。
(……もういい。もういいんだから。気にしない。)
そのたびに、心にそう言い聞かせた。
時の流れと共に、他の従業員の菊への対応も若干軟化してきている。今でも積極的に話しかけてくれることはないが、以前ほどの閉塞感は感じられず、毎日が昨日と同じように過ぎていった。
気候も日差しもすっかり暖かく、出掛けるのに春コートも要らなくなってきている。
このまま、スーパー中松の惣菜コーナーと早朝のコンビニバイトの毎日でも、自分は問題なく生きていける。
そんな予感も確かにあった。
※ ※ ※
ある木曜日の閉店後、午後9時30分。
暦には満月だと記されていたが、夜空は雲に覆われ、月明かりさえも届かない。
着替えを終えて帰宅の途につく菊は、暗いスーパー中松の裏口付近で、見覚えのあるシルエットを見つけて足を止めた。
「…嘘でしょ、」
闇に近く薄暗い裏道には、防犯用のサーチライトが時々光るだけの明かりしかない。
そこに立ち尽くし、影だけになっていても、それが誰なのか菊にはわかってそっと嘆息した。
「……なんで、」
そこにいるのは、おそらく島津。
菊は一瞬踏みとどまったが、それでも何とか重い足取りで前に進む。すると、菊の斜め上でサーチライトがピカッと光った。
その明かりで島津は菊の存在に気がつき、迷いなくスタスタと足早に菊に近寄ってきた。
「…!」
菊は数歩後退りする。
逃げようかと本気で考えた頃には、既に島津は菊のすぐ傍までやってきていた。
サーチライトの明かりの下、島津はいつもの穏やかな薄ら笑いを浮かべてはいなかった。
(どうして、)
菊は怯えたように眉をひそめた。
そんな菊の様子を察したのか、
「待ち伏せしてすみません。」
島津は少しくぐもった低い声でまず詫びた。
顔同様声の調子もやはり暗い。島津にも迷いがあるのだろうかと菊は思いつつも、顔を上げられなかった。
島津が自分に関わる理由。それを思うと胸に苦く、一度奥歯を噛み締めた。そして、
「…なんで、」
菊は心に浮かんだままの言葉を口にした。
サーチライトが静かに消える。
闇の中、菊の声が静かに響いた。
「なんで私に関わるんですか。あなたと私はほとんど面識がないし、ほとんど関わったこともないのに。」
「………」
島津は何も答えなかった。答えられなかったのだろうと菊は思い、小さく息を吐いて、そして小さく笑って言葉を紡いだ。
「『ころりん』を買収されたこと、気にされてるならお構いなく。それは島津さんのお仕事だったんでしょ?だから、罪の意識みたいなのを感じておられるなら、本当に、気にしないでください。」
菊の言葉は、嫌味でも負け惜しみでもなく、純粋なまでの本心だった。
『ころりん』買収の話を聞いたときは、心底がっかりしたが、心のどこかで、やっぱりそうだったのかと変に納得した。
そもそも『ころりん』の倒産が避けられなかったことは、従業員だったからこそ菊は痛感していた。
店の長たるものの話を、島津が2代目に対して口にした時は、菊の胸には響かなかった。
だが、日が経つにつれ、やはり店の責任者であった2代目が、継続にしろ潰すにしろ、もっと明確な指針を示してくれていたなら、ここまで自分は『ころりん』に執着せずにすんだのではないかと、思う日が多くなっていた。
懸命だったからこそ、不完全燃焼で終わった燃えカスのような思い入れに心を奪われる。
その名残惜しさに気持ちが引っ張られ、不必要に『ころりん』を求めていたのかもしれない。
「いえ。違います。」
「え?」
「それは違います。」
そう強い口調で言いきった島津の顔を、雲の合間から覗く満月の明かりが、はっきりと照らし出した。
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