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第六話
「若君」は、紀子の死を告げると、茫然自失に立ち尽くす菊が落とした値引きシールを拾い、菊の傍の陳列棚にそっと置いた。そして、
「お忙しいのにお邪魔して申し訳ありませんでした。」
とだけ言い残し、身を翻して去っていった。
その後の業務をどうやり過ごしたのか、菊は全く覚えていない。
※ ※ ※
紀子は、「ころりん」の初代社長の妻で、2年以上前に脳梗塞で寝たきりになっていた。
初代社長はそんな妻の介護に専念するため、ぼんくらと知りつつも息子に「ころりん」の経営権を譲渡した。
そして「ころりん」は、菊ら従業員の奮闘虚しく、およそ半年前、倒産したのだ。
「はあ、はあ、はあ、」
今では無機質なコインランドリーの立つその場所に、菊はもう二度と立ち寄らないと決めていた。
「はあ、はあ、はあ、…紀子さん、」
しかし、紀子の死を聞いて、菊はスーパー中松の終業と同時に着替えもそこそこに「ころりん」跡地へ向けて走り出していた。
頬をなぶる風はまだ冷たく、肺も気管も悲鳴を上げていたが、足は決して止まることがなかった。
「はあ、はあ、はあ、……」
そしてようやくたどり着いたそこは、見覚えのない赤く四角い建物が煌々と明かりを漏らしていた。
ここにはやはり無機質なコインランドリーが建っているだけで、「ころりん」の面影など、もうどこにも見当たらなかった。
「どうして!!」
菊はその場に踞り、アスファルトを拳で殴り付けて、声を出して泣いた。
行き交う人が、訝しげに眉をひそめながらも、好奇な眼差しで遠巻きに菊を見る。
スマホを構える者もある。
そんなことに、気を回す余裕もなかった。
ただの旧従業員でしかない菊は、どこの斎場で通夜が行われているのか知るよしもなかった。まして初代夫婦の子供である四姉弟に追い出されるように辞めさせられた菊には、今や聞く宛もない。
「どうして!!」
できることなら、紀子に「ころりん」のおにぎり復活を報告したかった。初代夫婦が築き上げてきた「ころりん」の歴史を、継承していますと胸を張って言いたかった。
だが、今の菊にはあまりにも金がなく、力がない。ただこうして俯せ、泣くことしかできない。
「もっと!もっと頑張ればよかったんだ!私がもっと頑張ってたら、きっと復活させられてたのに!」
「あなたは、あなたなりに、頑張ってますよ。ただ、十分ではない。」
不意に、低い声がして、涙と鼻水でグショグショになった菊は顔を上げた。
眼前にあったのは、よく磨かれた黒い革靴。
見上げるが、コインランドリーから漏れる必要以上に明るい光のせいで、その者の顔がよく見えない。
しかし、菊には、それが誰であるのか、すぐにわかった。
そして男は静かに問う。
「あなたが本当に望むことは何ですか?」
「あなたに答える義務はない!」
闇夜に、金切り声が谺した。
「あなたに、わかるはずがない…」
金に余裕のある身形が、最初から菊には気に入らなかった。
わかったように見下げられることも、親切そうに手を差し伸ばされることも、気に入らなかった。
なぜなら菊はこの男のことを知らなかったし、この男も菊のことを知るはずがなかったから。
なのに知ったように自分のことを語られることが、耐えられなかった。
そこへ、
「島津さん!すみません!うちの親父が失礼なことを!!」
慌てたような一台の車がコインランドリー前の駐車場に止まった。そして媚びへつらうように大袈裟に眉根を下げて、男が車から転がるように出てきた。
それは「ころりん」2代目社長だったあのぼんくら息子。
「島津さん!本当に申し訳ありません!うちの親父が、うちの親父が、」
こちらへ駆け寄る2代目は、菊に一瞥くれることもなく「若君」の傍まで寄ると、深々と頭を下げて何度も詫びた。
「すみません!島津さん!すみません!」
「内田さん、お気になさらず。お父様もこのような時に僕の顔など、見たくないのは当然です。」
「しかし!」
島津と呼ばれた「若君」は、そしてゆっくりと微笑んだ。
「本当に、お気になさらず。」
その微笑みはどこか辛そうにも見える。
だが、2代目に媚を売られている時点で気に入らなかった菊は、そんな男から目を反らし、ゆっくり立ち上がると、帰路へ向け、とぼとぼと歩き始めた。
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