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第九話
午前9時。
コンビニバイトを終えて家に帰ると、自宅アパート前になぜか父親が作業着姿のまま、電子タバコを咥えて突っ立っていた。
何事かと目を見張る菊に気がついた父親が、菊に向かいヒラヒラと手を振る。
「おお、菊、帰ったか、行くぞ」
「はあ?どこへ?」
訝しがる菊の傍までダラダラ歩いて寄ってきた父親は、そのままダラダラと菊の横を通りすぎ、アパート敷地外に停めていた白いワンボックスカーに乗り込んだ。あれは、父親が仕事用で使っている社用車だ。
父親は、仕事の合間に菊を迎えに来たらしい。
「ほら、さっさと乗れよ。俺も暇じゃねぇんだぞ」
運転席の窓から顔を出して菊を急かす父親に、菊は苦い笑みを浮かべて車へと駆けていった。
※ ※ ※
わりと再三、父親に行き先を聞いた。
しかし父親は、ラジオから流れる流行りの曲に合わせ、見当外れな歌詞を口ずさむばかりで答えようとしない。
「ていうか、なんで知りもしないのに歌えると思って歌うのよ、昔っから。」
「知ってるから歌ってんだろ。こっちは毎日ラジオで聞いてんだぞ。」
信号で止まった拍子に菊を見やり、父親は得意気に歯を覗かせた。
「……へぇ。すごいね。」
面倒になったので、感情を殺して口先で誉めつつ、菊は目を細めて父親を見た。父親の、上がった口角付近の無精髭が汚ならしくて目に余る。菊はげんなりとため息を吐く。
「どこに行くんでもいいけどさ、とりあえず出掛ける日は髭を剃ってって言ったのになんで剃ってないの?」
今度は父親が、菊とそっくりのげんなり顔で無精髭をじょりじょり弄りながら、
「お前はホントいちいちうるせぇなぁ。そんなんだからずっと彼氏が出来ねぇんだぞ。」
嘆息ついでに目を細めた。
すると菊も全く同じ顔で目を細め、
「はいセクハラ発言いただきましたぁ。たった今、今日の夕飯の当番はお父さんに決まりましたぁ。」
無感情で手を叩く。
父親は悔しそうに上がっていた口角を無様に下げた。
※ ※ ※
「ほら、着いたぞ。」
小一時間ほど走った頃か。
ウインカーを左に出してワンボックスカーが止まったのは、鉄の匂いの立ち込める小さなとある車両整備工場。
整備工場の遥か頭上の看板には、『武田モータース』の文字がある。
「……なんでここに?」
菊の問いに答えることもなく車から降りた父親は、そのままスタスタと歩き出した。
慌てて父親を追うように菊も車から降りる。
「ちょっと、お父さん、」
呼び掛けてみたが、しかし既に声が届かない位置まで父親は歩いて行っていた。
「…えー、どこよここ、」
ここは、父親が懇意にしている町の自動車整備工場ではない。菊が初めて連れてこられた場所だった。
菊はしばらくキョロキョロ辺りを見回していたが、視線はすぐさま父親の背中を追う。
すると父親は、『武田モータース』の事務所らしきプレハブに、躊躇うことなく歩み寄って扉を開けた。
「おーい、武ちゃん、いるー?」
「………」
父親の交遊関係というのは、娘にはかなり未知数だ。
武ちゃんを呼んでいる作業着を着た父親の背中が、菊にはどこか他人行儀に見えて、なぜか身がすくむ。
その時、
「あんた、瀬戸さんの娘さん?」
不意に背後から声をかけられ、
「きゃ!え?」
驚いた菊は、首が吹き飛ぶほどの勢いで声の方を振り向いた。
そこには、真っ黒なツナギを着た短い黒髪の大男が、菊の勢いに戦き、小さめの黒い瞳を丸めて立っていた。
「………」
しばらくお互い見つめあっていたが、どうにも見覚えがない菊は小首をかしげる。
「えっと、どなたですか?」
「聞いてませんか?松原です。」
松原と名乗った黒髪の男は、会釈がてら野暮ったく笑った。
「あ、すみません。父からは何も伺ってなくて。」
困惑を隠せず、菊も会釈しつつも営業スマイルで誤魔化した。
「おー!松原くん!武ちゃんは?」
その時、遠くで松原に気がついた父親が大声で松原を呼んだ。
松原は「社長は今ちょっと急ぎでお得意さんとこ行ってまして、」と、先程よりワントーン高い大声で答えた。
「………」
菊の頭上で取り交わされる会話に付いていけず、菊は少々憮然とした。
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