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第一話
そこは菊にとって、大好きな職場だった。
小さな町の小さな弁当屋「ころりん」は、去年創業50周年を迎えた。
老夫婦が営み、従業員はたったの2名。
米と水にこだわったおにぎりが名物だった。
子供の頃から「ころりん」のおにぎりが大好物だった。梅おにぎりも、昆布おにぎりも、巻かれたしっとりした海苔も、父一人子一人の家庭で育った瀬戸菊にとっては正しくお袋の味。
高校卒業のタイミングでパート募集の張り紙を見たときには、運命だ、と声をあげて喜んだ。
※ ※ ※
「どうしてですか!」
小さな弁当屋「ころりん」から、女のヒステリックな声が轟き、通行人は一瞬足を止めた。
「ちょっと大きな声出さないでくれる?瀬戸さん。ほら、人が見てるよ」
通行人の方をチラリと見やり、2代目店主は眉をひそめた。2代目は老夫婦の子供で、四人姉弟の末っ子長男だった。
2代目の後ろには、四十代を迎えた三人の姉が顎を上げて菊を見下している。
「そんなことは関係ありません!なんでここを閉めなくちゃいけないんですか!」
四姉弟の圧に屈しないために、菊は故意に大きな声を出していた。
そうでもしなければ、足の震えが全身に伝染してしまいそうだった。
鼻の奥がツンと痛む。
『すまないね、菊ちゃん。わしも心残りだが、菊ちゃんがいるんだ。だから安心して介護に専念できるんだよ。本当に、ごめんな。』
初代社長の妻、紀子が脳梗塞で倒れたのが2年前。
紀子の介護に専念するため、初代は弁当屋「ころりん」の経営権を2代目に譲渡した。
当時2代目は30代半ば。定職に就くこともなく、まして「ころりん」の営業を手伝うわけでもなく、住宅兼店舗の二階に住み、パチンコ通いの日々を送っていた。
『あいつに商才がないのはわかってるんだ。それでもな、あんな奴でも、わしにはかわいい息子なんだよ。』
大方の予想通り、譲渡を受けた2代目は、ほとんど店の経営に着手せず、店の運営を、菊と60代の橋本に丸投げし、自身は譲渡前と変わらずパチンコ通い。
店の大半の業務は、老夫婦が経営していた頃から菊と橋本が担ってはいた。
それでも老夫婦が抜けてからは当然人手が足らない。やむを得ず菊と橋本は、交代でサービス残業や無給の休日出勤を繰り返しながら「ころりん」の存続に奔走した。
しかし、人手不足は仕入れのミス、慢性的な商品の欠品等を招き、緩やかに経営は悪化していった。
せめてあと二人、人手を増やしてもらえないかと、菊と橋本は何度も2代目に進言したが、「わかったわかった」と生返事を繰り返されるだけで、聞き入れてはもらえなかった。
そしてとうとう今年、売上が前年比の80%を下回った。
菊と共に店のために奮闘してきた橋本が、疲れきった顔で肩を落とし、
「菊ちゃん、もう私、限界だわ。」
憔悴しきった声で引退すると言った。
菊はその夜、帰路の途中の公園で、声をあげて泣いた。
もうダメだと、身に染みて実感した瞬間だった。
それでも、一縷の望みを信じて出勤したその日、2代目は菊に、半分笑いながら「ころりん」の閉店を告げたのだ。
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