記憶

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 昼食を済ませた2人は、道の駅に併設した『水鳥川、林沢資料館』に行くことにした。ここには、水鳥川や林沢で使われていた工芸品が収蔵してある。その工芸品には使っていた人の名前があった。  入口の前には受付があり、そこで入館料を払う。  受付には、初老の男性がいた。その男は水鳥川小学校最後の卒業生の1人で、ダム湖に沈んだ集落のことを後世に残すために努力している。 「いらっしゃいませ。入館料は大人500円、子供は250円でございます」  文子は千円札を出した。 「大人2人分お願いします」  男は千円札を受け取った。 「ありがとうございます。ごゆっくりどうぞ」  そう言って、男はお辞儀をした。  2人は中に入った。入り口付近には、在りし日の集落の上空写真があった。それこそ、一也の故郷、水鳥川だった。昭和30年ごろの写真で、水鳥川が一番賑わっていたころだった。しかし、このころからダム建設の計画があった。 「これが、水鳥川。ここがお父さんの故郷なのね」  文子は開いた口がふさがらなかった。のどかな山里の風景で、とてもここがダム湖になったと思えなかったからだ。川で遊ぶ子供、農作業をする女性、山里ののどかな小学校。全てもう見られない風景だった。 「本当にここが集落だったなんて」 「信じられないだろ。ここに集落があったんだ」  祖母の家を探しながら、一也は言った。 「こんなに豊かだったのに」 「仕方ないんだよ。水害対策と電力のためなら」 「豊かさのために、こうなったのね」  文子は橋の写真を見ていた。干上がったダム湖の橋だった。橋を1台の軽トラックが渡っていた。トラックには収穫された野菜が載っていた。 「橋さえ見なければ、ここに集落があったなんて、信じられない」 「とっても自然豊かなところだったんだよ」  里帰りしたときのことを思い出しながら、一也は言った。  ふと、ある写真を見て、一也は驚いた。それは自分だった。庭で遊んでいるところだった。そして、その写真の撮影者は、父だった。 「この写真、見てごらん」 「これ、誰かしら?」  文子は聞いた。文子は別の写真を見ていた。 「9歳の時の僕だよ」 「えっ、これ、お父さんなの?」  文子は驚いた。一也の写真があることを知らなかった。 「うん。それに、この写真の撮影者、見てごらん」  そう言って、一也は撮影者の名前を指さした。文子は写真の下に書いてある撮影者の名前を見た。名字が同じだった。 「お父さん・・・」  文子は一也を見た。 「これを撮ったのは父なんだよ。父が撮った僕の写真なんだよ」  一也は10年前に死んだ父のことを思い出していた。 「お父さんの成長記録を残すために?」 「そうだよ。それに、やがて消えゆく故郷の姿を、昔はどこにもあった故郷の情景を後世に残すために撮ったんだよ」  一也はダムが沈んだことを知った時のことを思い出した。沈んで以降、故郷の記憶ともどもその時のことを忘れていた。仕事に明け暮れ、東京に住み慣れてしまったからだ。  高校1年の夏の朝のことだった。一也は去年、祖母を亡くし、里帰りする場所がなくなった。祖母は、ダム湖に沈んだ水鳥川と林沢のことをいつまでも気にしていた。そのころから、一也は水鳥川や林沢のことを忘れていった。学業や大学進学のことで頭がいっぱいだった。今年の夏はただただ東京の難関大学に進学するための勉強と夏休みの宿題をやるだけだった。朝から夜まで勉強漬けで、外で遊んでいる暇なんてなかった。  一也は家族と朝食を食べながら朝のニュースを見ていた。 「本日から、林沢ダムの試験湛水が始まりました」  一家はそのニュースを食い入るように見ていた。一家はその時、水鳥川集落が沈んだことを知った。その時一也は、中学校に進むころに祖母が引っ越した理由を知った。一也は驚きを隠せなかった。祖母だけではなく、故郷までもなくなってしまうなんて。一也は思い出がすべてなくなっていくような気がした。 「故郷が・・・」  父がつぶやいた。 「沈んでいく・・・」  母が驚いた。両親は開いた口がふさがらなかった。 「天国のおばあちゃん、どう思ってるんかな?」  一也は祖母のことを思い出していた。 「きっと泣いているだろうな。住み慣れた故郷が沈むんだもん」  3人は泣いていた。一也は祖母の家で遊んだことを思い出していた。もう故郷に戻れないと思うと、涙が出てきた。  一也は誰かの気配に気づき、振り向いた。周太だった。  周太と会ったのは中学校3年の冬以来だった。引っ越した祖母からは、家族そろって名古屋に引っ越したと聞いていた。周太は小学校を卒業後、引っ越した集落を離れ、名古屋で暮らしていた。卒業後も夏休みや冬休みには実家に戻り、一也と会っていた。周太も今年の春に定年退職をしていた。しかし、一也と違って、住み慣れたニュータウンのマンションに今でも暮らしていた。妻に先立たれ、子供たちは家を出ていき、一人暮らしだった。  50年近く経ち、周太は髪が薄くなり、白髪やしわが目立ち始めていた。 「周太」 「久しぶりだな」  周太は手をあげた。周太は久しぶりに一也に会えてうれしかった。 「何年ぶりだろう」  一也は驚いた。周太に会えると思っていなかった。 「東京って、本当にいいとこなんかな? 1人で暮らすようになって、思い始めてきた」  周太は真剣な表情だ。 「一人暮らしか。僕は息子夫婦と暮らしてる」  周太は楽しそうだと思った。息子とは絶縁状態で、20年以上会っていなかった。 「都会に移り住んで、思ったことがあるんだ」 「何?」 「都会に移り住んで失ったものが、今わかった気がするんだ。人付き合いさ。農村って、周りがとても仲良しで、僕らの年になっても笑い声が絶えない。でも、東京って、人付き合いが少なくて、誰にも見てもらえず、死んでいく人もいる。親がいなくなって、子供たちが家を出ていき、一人暮らしになった。仕事が唯一の心のよりどころだったけど、定年を迎えて、どこにも心のよりどころがなくなった時、故郷の大切さがわかった」 「そうかもしれない」  一也は考えた。確かにそうだと思った。農村はいつまでも孤独を感じない。でも都会は、仕事に就いている頃はそう感じないのに、定年を迎えると、孤独になる。それが田舎と都会の違いだろうか。  3人は道の駅の外に出た。都会に戻るようだ。  一也と文子と周太は車で道の駅を後にした。  ふと、一也は思った。都会に移り住むと、何を得て、何を失うんだろう。周太の言った言葉が心に残っていた。  一也はラジオで明日の天気を聴いていた。明日は雨模様らしい。故郷は再び湖の底に消えていく。でも、故郷の記憶を消してはならない。そして、人付き合いを少なくしてはならない。
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