9.ばか、大好き

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「まだ〈森〉が小さかった頃に、西の国へ行ったんだ」 「えっ、嘘!なんで黙ってたの!」  トイは荷台から御者台に四つん這いで移動してきてから、立ち上がってナツメの肩をがしっ、と掴む。  まあ聞け、と苦笑しながら、ナツメは続けた。 「その時、西の国では〈森〉を観測しに行った学者団が帰ってきていたんだ。そこで、ヤツらは言った」 「観測……そのころはまだ、近づいても大丈夫なくらい小さかったんだ」 「ああ」 「それで、なんて言ってたの?」  ナツメは言うのを躊躇っていたようだが、一度深く息を吸ってから言葉を整えて、その重い口を開いた。 「……旋律が溶ける。音が聞こえる」  導陣(ルーン)は身体の音を使う。転じて、古い時代に生きた人は、導陣(旋律)と呼ぶこともある。そして、身体の音で紡ぐ旋律から意味が変わり、人間の事を〈旋律〉と比喩する表現も生まれた。  学者団が言っていたのは、とナツメはそこまで説明してから、言いなおした。 「身体が溶ける音が聞こえるってな。解釈は様々だが、ってヤツぁ、俺には動物を喰らう植物に似ていると思えてならない。甘い蜜でおびき寄せ、毒の胞子や酸で身体ごと溶かして養分にして喰っちまう植物――」  肩に触れるトイの手に、力が入るのが分かった。 「案外、俺の冗談の通りなのかもな」 「…………ちょっと。やっぱ冗談じゃなかったじゃん」 「自分で言っておいてなんだが、俺もトイの考えの方が正しい気がする」 「えぇ……どっちなの?」 「大人はずるいんだ。今は曖昧に濁しておきたいんだよ」  曖昧に、と繰り返したナツメは、それから暫く口を開く事はなかった。  トイにとっては何もない平原の真ん中、数百メートル向こうに大きな〈森〉が(そび)えたつその場所まで着いたところで、ナツメは馬車を停止させた。会話が途切れてからほんの十数分後の到着だった。  いつの間にかナツメの首に腕を絡めて抱き着いていたトイを引き剥がして、馬車から降りて身体を伸ばす。 「ほれ、ここで終いだ。降りて準備しろ」 「はぁい」  名残惜しむように馬車を引く馬二頭のたてがみを丁寧に撫でてやってから、トイは用意していた荷を降ろし、準備を始めた。  ナツメの仕込みのおかげか、ものの数分で支度を終えたトイは、〈森〉をじっと見つめるナツメの背後から近づいて、その背中を抱きしめた。身長の差で、頭のてっぺんが肩甲骨の辺りでぐりぐりと左右に揺れている。  顔を押し付けているのだ。
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